サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

人間理解からの教育 (ルドルフ=シュタイナー、西川隆範訳 筑摩書房)

はじめに

 巻末の「訳者あとがき」より引用します。

本書は、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925年)が1924年の夏、イギリスにシュタイナー教育学に基づいた学校を設立しようとする人々のためにおこなった教育講座の講義録を訳出したものである。この講座はシュタイナーがおこなった最後の教育講座であり、シュタイナー教育の全体像が具体的かつ平明に述べられているので、シュタイナー・カレッジ(アメリカ)の教員養成コースでは本書を最初に読むべき一冊として推薦している。

 最初のシュタイナー学校が創設された 1919 年。それに先立って行われた三つの教育講座も、既に翻訳され刊行されていますが、そちらは、すでにシュタイナーの精神科学を研究してきた人々を対象としているため、そうではない人々が最初に読むと、読みづらい部分があるとのことです。この「あとがき」につづく子安美知子さんの「解説」には、この本「人間理解からの教育」が、それらへの「橋渡し」として機能すると書かれています。

 シュタイナー教育に興味のある方は、この本を読んでから「神智学」や「教育の基礎としての一般人間学」などに進めば、わりとスムーズに読み進めることができるのかもしれません。サポンテはこのうち後者を読んでいないのでわかりませんが。

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薔薇十字会の神智学 ―シュタイナー講演集 ルドルフ・シュタイナー著,西川隆範訳 平河出版社

薔薇十字会の神智学―シュタイナー講演集 (Mind books)

薔薇十字会の神智学―シュタイナー講演集 (Mind books)

薔薇十字会の神智学」を読み終わりました。ひととおり、通読しました。

だから何だと思われるかもしれませんが、サポンテにはけっこう骨の折れる読書で、もう「通読した」ということだけで一つのイベントと言っても良い、自分で自分を褒めてあげたい作業でした。

そもそもが難解でしたし、「これ、なんのための知識?」という疑問が拭いきれず、読み進むのが苦痛でした。

それでも読み進めるべき理由は最後の方に書かれていました。

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シュタイナー教育とは - サポンテの理解するところの

はじめに

こんにち、シュタイナー教育とはなにであるかをインターネットで調べると、Wikipedia など多くの情報が入手できます。そのため、サポンテが書くような余地はどこにもないような気もします。また、サポンテ自身シュタイナー教育を受けた側でもなければ(いくばくか関わりを持ったことがあるとは言え)教育者でもありません。

日本でシュタイナー教育の取り組みが始まって(それは今も、小規模ではありますが)20年ほど経つので、卒業生含め、シュタイナー教育に関わった人数としては少なからぬものがあるかと思います。そのような事情を鑑みても、サポンテがなにかを書くような余地はどこにもないような気がします。

しかしながらサポンテには、主流の教育を受け、その恩恵とともに看過できない弊害をも体験・体得してきた身の上から、シュタイナー教育に少なからぬ憧憬があります。及ばずながら、このシュタイナー教育なるものの普及にいささかでも力になりたいという切なる衝動から、本記事を書かせていただきたいと思います。

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AppleScript で Finder 項目を選択する

はじめに

Finder で選択されている項目を AppleScript で取得するというサンプルはたくさん見つかったのですが、逆に指定したファイルを Finder で選択状態にするというサンプルが簡単には見つからなかったので、調べたついでにここに記します。

いや、基本的なことなのでサポンテの探し方が悪いだけかもしれませんが。

参考にしたのは以下のサイトです。

My Memo Pad: ファイルを選択(拡張子を指定).scpt

鳶嶋工房 / AppleScript / 入門 / ファイル指定を覚えよう

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従軍慰安婦は政治問題ではない

はじめに

あいちトリエンナーレの企画の一つである表現の不自由展・その後が開催からわずか3日で展示が中止される事態になりました。

物議の中心となっていたのは「平和の少女像」という作品で、従軍慰安婦を連想させるため「芸術ではなく政治的」との批判がありました。

日本人の多くは、この批判が的を外していることに気付いていません。

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PlantUML で白黒のアクティビティ図を描く

テキストベースで気軽に UML を描くことができる PlantUML ですが、デフォルトでは何か微妙な色が付いています。ついでに__言いにくいけれど__美しいとは言えない配色です。デフォルトは白黒が良かったな...と思う人も多いのではないでしょうか。

この配色には「この図は PlantUML を使って描かれています」と一目で分かるメリットがあります。しかしオフィシャルな書類では白黒で作図したいという要求も、やはり多いでしょう。

この記事では PlantUML を使って、色をコントロールしたアクティビティ図を描くことを目指します。

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一人で死ねの対義語は「いっしょに生きよう」

はじめに

ソースを。

「じゃぁ他人を犠牲にするなっていうことは一人で死ねっていうことじゃないですか?そこをごまかしちゃダメですよ。社会はそういう規範意識を醸成して、自分の命を絶つときは絶対に人に迷惑をかけるなっていうことを社会がそういう風にしていかないと、きれいごとばかり言ってもダメですよ」

橋下徹氏、京アニ放火事件で青葉容疑者へ「一人で死んで欲しい。他人を犠牲にしていいのか?社会でこういうことは言い続けるべき」 : スポーツ報知

一人の頭のおかしい人が出てきて。死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。

立川志らく「死にたいなら一人で死んでくれ。何で弱い子供のところに…」川崎市で十数人刺される : スポーツ報知

挙げたソースの二件は結局「拡大自殺」ではなさそうで、発言の根拠となる事件の引用がそもそも的外れという批判も可能ですが、それはおいといて。

一人で死ねの対義語

「一人で死ね」の対義語は「他人を犠牲にしてもいい」ではありません。「いっしょに生きよう」です。そこをごまかしちゃだめです。社会はそういう規範意識をこそ醸成していくべきです。自分の命を絶たせる前に、汚くても困難でもみっともなくてもいっしょに生きようと、社会がそういう風にしていかないと、「他人を犠牲にしない」なんてきれいごとばかり言ってもダメですよ。

「一人で死ね」が批判される理由

「一人で死ね」ということがなぜ批判されるかというと、ひと言で言うと拡大自殺を逆に増長させるから」です。

拡大自殺をする人というか自殺をする人は往々にして孤独なものです。生きているうちに孤独で、死ぬときも「一人で死ね」と言われたら、もうむしろ「他人を巻き込んで死んでやらないと気が済まない」くらいに追いつめられます。逆効果なのです

だからこそ「いっしょに生きよう」という意識を社会が醸成する必要があります。たとえかけ声だけだとしても、「一人で死ね」と「いっしょに生きよう」のどちらがマシか、考えるまでもありませんよね。

命の道

「一人で死ね」というのは簡単です。「他人を巻き込むな」というのも簡単です。潔くて日本人の美学に沿っている、むしろ、それこそきれいごとで済ませようという浅はかさが見えます。しかしそれは何も生まないし、生きない。死の道をつくってしまう意味の無い言葉です。

社会が声を上げるべきは「いっしょに生きよう」ではないでしょうか。では「頭のおかしい人」とやらと、お前はいっしょに生きることができるのか?と問われれば、たしかに難しいかもしれない。現代の日本人の多くに、障がい者とともに歩むコンセンサスができているか?と問われれば、それもまた厳しい状況と言わざるを得ないでしょう。しかしそれは命の道。多くを生かす、意味のある道。泥臭くて汚れを伴い困難な、お互いに傷つけあうことになるかもしれない。しかしほんとうに選ぶべき希望の道ではないでしょうか。

社会が言うべきこと

橋下さんも立川さんも「拡大自殺」をするような人たちといっしょに生きている暇はないでしょう。きっと努力して今の立ち場にいる方々で、そんなヒマはないと言うかもしれません。お二人だけでなく、日本人の多くは同じ気持ちなのかもしれません。でも生きている方がよくないですか?面倒で困難でも、生きている方がよくないですか?

一人で死ねと言う社会と、いっしょに生きようと言ってくれる社会と、どちらにあなたは住みたいですか。