- 作者:ルドルフ シュタイナー
- 発売日: 2013/03/01
- メディア: 文庫
はじめに
巻末の「訳者あとがき」より引用します。
本書は、ルドルフ・シュタイナー(1861-1925年)が1924年の夏、イギリスにシュタイナー教育学に基づいた学校を設立しようとする人々のためにおこなった教育講座の講義録を訳出したものである。この講座はシュタイナーがおこなった最後の教育講座であり、シュタイナー教育の全体像が具体的かつ平明に述べられているので、シュタイナー・カレッジ(アメリカ)の教員養成コースでは本書を最初に読むべき一冊として推薦している。
最初のシュタイナー学校が創設された 1919 年。それに先立って行われた三つの教育講座も、既に翻訳され刊行されていますが、そちらは、すでにシュタイナーの精神科学を研究してきた人々を対象としているため、そうではない人々が最初に読むと、読みづらい部分があるとのことです。この「あとがき」につづく子安美知子さんの「解説」には、この本「人間理解からの教育」が、それらへの「橋渡し」として機能すると書かれています。
シュタイナー教育に興味のある方は、この本を読んでから「神智学」や「教育の基礎としての一般人間学」などに進めば、わりとスムーズに読み進めることができるのかもしれません。サポンテはこのうち後者を読んでいないのでわかりませんが。
人智学隠しの傾向
人智学(神智学)は、唯物論的な自然科学の限界を超えた概念が基礎となっているため、それが頻繁に批判の的となり、広く受け入れられる際の障壁ともなっています。ヴァルドルフ教育が実績を挙げても、そのエッセンスや手法と言った「うわべ」だけを取り入れて、基礎となる哲学としての人智学を積極的に学ぼうとしない人たちが(主に外部にだと思いますが)居ます。
その気持ちはわからなくはありません。現代のような社会状況では、物質主義が蔓延しているばかりではなく、一つのことを深く掘り下げるより、広く浅く美味しいところだけをつまみ食いするような態度が奨励されているようなフシがあります。
しかしシュタイナーは人智学が必要だとハッキリと言います。
人間認識に基づいて授業をおこなうには、その人間認識を自分のものにしなくてはなりません。もっとも自然なのは、人智学をとおして人間認識を身に付けることです。だれかが新しい教育学の基盤について質問したなら人智学が新しい教育学の基盤だ、と答えなくてはなりません。
ところが、わたしたちのなかには、できるかぎり人智学を否定して、人智学なしの教育学を普及させようと努力している人が大勢います。彼らは、教育学の背後に人智学が存在するということを人々に気づかせたくない、と思っているのです。
ドイツには、「毛皮を洗っておくれ。でも、濡らさないでね」ということわざがあります。人智学を表に出さないでヴァルドルフ教育学を広めようというのは、これとおなじことです。大切なのは、ほんとうに思考し、真実を語ることです。
ですから、だれかが「どうしたらよい教師になれるだろうか」と問うなら、わたしたちは「人智学から出発しなければならない。人智学をおろそかにすべきではない。人智学をとおして人間認識を得なくてはならない」と答えなくてはなりません。
サポンテも以前は「手段が同じなら結果も同じになるのだから、それで良いのではないか」と考えていました。農業講座のノートを作っているあたりで、すこしそう考えていたような気がします。農作業はほんとうに「作業」ですから、法則に従っていれば良いのだろうと捉えていました。しかし人智学(神智学)を学ぶうちに、やはりこれは必要な知識だと思うようになりました。それは知識というよりは「態度」と言った方が良いかもしれません。農者が農場を観察する際の手がかりとして、教師が子どもを観察する際に指針となる人間認識として、やはり人智学の知識は必要だと感じます。
「それはなぜか」「それ(人智学)は正しいのか」と尋ねられるかもしれません。サポンテは、自身の子どものころの記憶と経験から「この教育法は理にかなっていて正しい」と直観しました。だからその背景にある哲学についても、そう感じることができます。反対に、そう直観しない人は、むしろどうしてなのかをサポンテとしては知りたいのですが、まあそれは万人に適する統一的な教育法が存在しないということを示しているのかもしれません。サポンテは教育には多様性(多様な選択肢)が必要であると考えているので、それは理解できます。
教える内容と年齢の厳密な関連およびその理由
この講演でシュタイナーは再三にわたり子どもにものごとを教える年齢を厳密に定義し、守る事を教師に課しています。
教育学でいわれる細々としたことよりも、各々の年齢にどのようなことが出現し、それに対してどのような態度を取らねばならないかを知ることのほうがずっと重要です。
その理由の一つは子どもが成長する過程で、世界に対する表象が変化していくためです。他の理由は、年齢によって心魂的に必要とする養分が変化していくからです。他にもあるかもしれませんが、サポンテはそのように理解しました。
この本の「年齢に応じた教育の課題」の章には理由の一つが端的に書かれています。
〈心魂的なミルク〉という概念を発達させることが(教師にとって)、たいへん重要です。生まれたあと、子どもには身体的なミルクを与えねばなりません。ミルクが食物であり、子どもにとって必要なものすべてがそのなかに含まれています。乳児はミルクを飲むことによって、すべての養分を摂取します。(中略)子どもが小学校に入るときには、〈心魂的なミルク〉という概念を子どものために見出さねばなりません。(※括弧内はサポンテによります)
また、冒頭の章「真の人間認識の必要性」にも「成長しうる概念」という示唆があります。以下に引用しますが、この「真の人間認識の必要性」の章は全文を引用したいくらい濃くて重要な内容です。
ライオンや猫などの概念をはっきりさせるために、できるだけよい定義をしようとする、としてみましょう。子どもは、その概念を死ぬまで保っていられるでしょうか。今日では、心魂も成長するということが、まったく感じられていません。ただ一つの概念を子どもに教え、その概念を一生のあいだ保持できるべきだという、としてみましょう。
それは、あたかも3歳の子どもに靴を買ってやり、その後ずっと、3歳のときと同じ大きさの靴を与えつづけるようなものです。子どもは成長していきます。ですから、3歳のときに買った靴の大きさに合うように、子どもの足を小さいままにしておこうとするのは野蛮な行為だと見なされます。
しかし心魂に関しては、私たちはそのようなことをしているのです。わたしたちは子どもに、その子とともに成長するような概念を与えてはいないのです。そのままにとどまる概念を、わたしたちは子どもに与えています。成長しうる概念を与えるべきなのに、そのままにとどまる概念を与えることによって、わたしたちは子どもを苦しめています。子どもの心魂は、わたしたちから得た概念のなかに押し込められています。
ノート
いくつかの段落に対して、その内容を端的に示すタイトル、あるいは見出しのようなものを作るつもりでノートを作りました。簡単な本のまとめのようになっていますが、これだけを読んでも本の内容自体はさっぱり分らないでしょう。あんまりノートになっていない気もしますが、読んでいてとても心地よい本なので、このノートを目次がわりに全体を俯瞰して、ときどき本に戻って読み返してみたいと思います。
Ⅰ-1 真の人間認識の必要性
Ⅰ-2 遺伝と個性
- 天界から下ってきた子どもの精神が身体に慣れていくまで
- 生まれてから歯が生え変わるまで持ちつづける身体
- 遺伝と第二の身体
- 神的、霊的なものが地上に下ってきた
Ⅰ-3 年齢に応じた教育の課題
- 生まれてから7歳までの子どもの関心
- 7歳から14歳の子どもに必要な心魂のミルク
- 思春期に必要な精神的なミルク
Ⅱ-1 模倣と想像力
- 全体として一個の感覚器官としての幼児
- 幼稚園の授業でつくられる後年の虚弱さ
- 幼児にとって人間考察と人間生活の一部となる教師の態度
- 人生のあらゆる表明を正確に観察できなくてはいけない
- 想像力のいとなみを発展させる歯牙交代期における移行
Ⅱ-2 書き方の授業
- 子どもが生まれつき持つ芸術的感覚、象徴的ファンタジーに訴えかける
- 生活からとり出した形象から子音を導き出す
- オイリュトミーの授業で形成された音から導き出す母音
- 書き方を教える前に読み方を教えてはならない
- 真の人間認識から発するもの
Ⅱ-3 物語
- 9・10歳以前の子どもは自分と周囲を区別していない
- 教師の心魂に必要な芸術的な感覚・素質
- 人智学をとおして、伝説、童話、神話を信じることを学ぶ
- 9歳から10歳のあいだに、よい人への信頼が揺らいではならない
Ⅲ-1 植物学
- 9歳から10歳を越えると外界の事実、存在に対する導入をはじめる
- 植物にはその下方の大地が属している。植物学はつねに地球との関連で考察する
- 子どもは植物界を大地との関連で知ると歓声を上げる
Ⅲ-2 動物学
- 植物とは異なる大地との関係
- 動物界は拡散された人間。人間は収斂された動物界
- 10歳から12歳ごろまでの子どものなかに「植物-大地、動物-人間」という表象を呼び起こす
- 人間は正しく大地の上に立ち、世界のなかに正しく位置する
Ⅲ-3 懲罰
- それぞれの年齢が要求するもの
- 原因と作用について聞くことができるまでに成熟するのは12歳ごろ。それ以前はイメージを示すことによって、そのような感情を得させる
- クラスを指導するなら、ものごとを考え出す才を持っていなくてはならない
Ⅳ-1 教師の条件
- 教師の勇気と自己教育と心魂の中で芽吹き生長するもの
- 最初に萌芽として子どもの中に植えつけたものを、くり返し教材の内容とすることができる
- 自分の感情を通して子どもたちに規律を守らせる。子どもと肯定的に関わる
- 自分のクラスの子どもたちを知る。子どもの気質を見る目
- 物語について話しあう。物語に現れる表象が子どもとともに成長できる
Ⅳ-2 形態感覚
- 幼少期には、思考は目に見える形象的なものによって発展させられるべき。最初は不器用でも子どものなかに形態感覚を呼び起こす
- 調和・対称・反射。世界のいたるところに見出される調和のなかへ子どもを導いていく
- 沈着で素早い手指の練習をとおして、人生のための思考を学ぶ
- 内的に形成される授業を進めるために必要なエポック授業。一定期間ひとつのことに集中することによって非常に多くのものが得られる
Ⅴ-1 算数(1)
- 授業のなかに生活から疎遠なものを持ち込まないために
- 子どもの本性に合った方法で計算を教える
- 人間自身から数を導き出す。生活から次第に数を構築していく
- 数学は身体でおこなわれ、身体で考えられ、身体で感じられるもの。人間の頭は身体がおこなうことを反射する器官
- まず単一・一体ということを教え、それを分割する
- 数えることを学び、その後、足し算以外の計算に進む
Ⅴ-2 算数(2)
- まず全体として与えられたものを眺め、それを部分に分けるように教える
- 最初に合計があり、それを分けて足し算にすることによって、生命的な、動きのある概念にいたる
- 生活においては、本来得たものと残ったものとがあって、失ったものを探さなくてはならないことがある
- 思考を目に見えるものから分離するとあまりに早く主知主義・抽象に近づき、子どものすべてを駄目にしてしまう
Ⅴ-3 幾何学
Ⅵ-1 芸術教育
- 歯牙交代期から思春期のあいだの子どもは、形態を彫塑的・絵画的に作り上げようとする衝動を持つ
- 同じ時期、アストラル体は内的な楽器としての神経路を奏でる。思春期までにアストラル体は収斂し、肉体組織とエーテル体組織に結びつく
- 子どものなかには「音の内的経過の幸福感」が高次の段階で存在しているにちがいない。自身の音楽的本質が客観的な楽器のなかに流れていく感覚をできるかぎり早く子どもに感じさせる
Ⅵ-2 外国語
- 言語の学習に関して重要なのは、9歳から10歳のあいだの時期を考慮すること。この年齢以前の子どもは、習慣によって言語を身につけ、自分と周囲と区別できるようになってから自分が語る言葉を考察できるようになる
- 母音は内的な心魂の表現であり、子音は外的なものの模写。現代の文明人は言葉をなにか抽象的なものと思い、言語、語感のなかに生きることができなくなっている
Ⅵ-3 オイリュトミーと体操
- 語感を保っていると、幼児が言葉を学ぶのを自明のことと思うのと同様に、それがオイリュトミーへの移行するのを子どもは自明のことと感じる
- 体操、スポーツにおいて人間は外的な空間に順応し世界に適応するかどうかを試すもの。オイリュトミーは内面の開示。オイリュトミーは目に見える言葉。オイリュトミーと体操はそのような相違があり、両者は併行しておこなうことができる
Ⅶ-1 生活に結びついた授業
- 山脈を目に見えるように叙述したなら二〜三の鉱物を示したあと、鉱物そのものに移行することができる。マッチを擦ってマッチがどのように燃えるかを子どもに見せる。炎の外側はどのように見え、内側はどのように見えるかなど、細かいところまで子どもに注意させる。天秤を使っている店に行ったと子どもに考えさせる。そこから均衡、重さという概念に進む。あらゆる事に関して全体から出発して部分に至る。生活から出発して個々の物理学的現象、鉱物学的現象を考察する事が重要
- 子どもを絶対に疲れさせないために教師は自分が叙述するもの、おこなうことのすべてを、できるかぎり頭が関与しない、心臓・律動に合った、芸術的でリズミカルなものにしなければならない
Ⅶ-2 現実に即した授業
- 教師は現実に即するとはどういうことかについての感情をまず身につける必要がある
- 学校でおこなうことは、ふたたび生活のなかに戻っていく。学校で誤った教え方をすると子どもたちはその思考方法を人生のなかに担っていく。実際には遊びにおいても子どもに生活の模倣以外のことをさせるべきではない。精巧に作られたおもちゃを考案すべきではなく、人形にしろなんにしろ、可能なかぎり子どもの想像力が働く余地があるようにするべき
Ⅶ-3 学校組織について
- 全ての授業についていけない子どもに対する二つの授業プラン。まず人間学の締めくくりとして、自然・歴史の授業を通して子どもが人間の本質についての認識を得て、人間が世界のなかでどのような位置にあるかをおおよそ知るようにさせる。もう一方ではさまざまな職業の人がどのように働くかを通し、可能なかぎり子どもに生活を理解させようと試みる
- そのようなことを通信簿などを通しても詳細に試みる。通信簿には子どもがどのような状態であり、各々の教科でどのように進歩したのか、その子がどのようなことを実際になしうる能力を持っているか、教師自身の言葉で通信簿に記述する。そして教師は毎年、それぞれの生徒のためにつぎの年の導きとなりうる詩を書く。このような通信簿は両親に、子どもが学校でどのような様子かを正しく表象させる
- 教師は子どもを通して両親の家を見る。そうしてはじめて教師は子どもを理解できるようになり、その子どもの特性についての洞察を得る。教員会議は人間を研究し、そのことをとおして学校のなかに流れが生まれるようにする。教員会議は絶えまない研究の場
関連書籍(訳者あとがきから)
一般向けの公開講座の講義録
自由ヴァルドルフ学校の教員を対象にした講座の講義録
- 教師のための精神科学的言語考察
- 人間認識と授業形成
- 人間認識からの教育と授業
自由ヴァルドルフ学校の創設に先立っておこなわれた三つの教育講座の講義録
おわりに
このノート作りはとても時間をかけてしまいましたが、読むだけならとても平易な文章で、つまづくところもないでしょう。とても充実した時間でした。
みなさんも、この本はぜひ手に取って実際に読んでみてください。この本は思想家「シュタイナー」自体や、その思想の集大成である「人智学」自体の入門書でもあります。人智学はつまるところ人間をより深く認識するための学問であるためです。