サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

ピーターの法則 (ローレンス・J・ピーター, レイモンド・ハル ダイヤモンド社)

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

はじめに

またすごい本を見つけちゃったな、という印象です。

冒頭に出版の経緯が書かれていますが、推敲よりも世に出すことを急いだようです。 そのためかいくつか気になる点があります。

  • 体系化が甘い
  • 事例が少ない(普遍性が甘い)
  • 内容に古さを感じる(普遍性が甘い)

それでもなお、1969年に発表されたというこの本に書かれていることには刮目すべきものがあります。

内容

簡単にまとめると__ネタばれですが__以下のようになります。

有能な人間は抜擢され、その有能さを発揮できない地位まで昇進し、やがて社会全体が 「成熟」期を迎えると全てのポストが無能(有能さを発揮できない)人間で埋められる。

それを避けるためには「創造的無能」__つまり有能さを発揮しつつも昇進の価値がない 人間であると見せかける能力__を身に付けることが有効であり、ひいては世界を救うこと になる。

概ね上記の2点です。

体系化が甘い

内容が若干冗長なのか、読んでいて飽きが出てくるところが多いです。 また重要な文脈が流れるようにつながっているのではなく「散らばっている」ように感じます。

事例が少ない

上の「有能さを発揮できない地位」というのは、日本では「器」という言葉で計られます。 他の国では違うのかもしれませんが、それでもある程度のコントロールがなされている 可能性はあるでしょう。そうしたことに言及はされていません。

また昇進がなければ有能さを手に入れられなかった人もあるでしょう。地位が人を作る ということもあるはずです。そうしたことに対する言及は「危機に際したとき」くらい しか書かれていません。

世界には、そうした事例もあるかもしれませんが、そうした横方向の「事例の蓄積」が 少ないです。もっとも作者に言わせれば、そうした社会があるならそれはまだ「成熟」 の度合いが低いということかもしれません。

内容に古さを感じる

終身雇用制が一般的であったり、経済成長が一定であったりした時代であれば、昇進は 不可逆なものであったのかもしれません。しかし今日ではどちらも破綻、あるいは少なく とも普遍的ではないことが共有されています。

昇進したけれどしっくりこない場合に、あえて条件のよくない転職をして充実した社会 生活を選択するという生き方も、現在では珍しくありません。

出版年が古いためか出版を急いだためか、この本はそうした時代を経ることによって 得られる「事例の蓄積」が少ないです。縦方向の普遍性が甘いです。

著者が存命なら、このあたりを更に推敲して改訂版を出してくれたものとと期待されますが お二人とも既に他界されていることは残念です。

本の位置づけ

文章には「階層社会学」という単語が多く見受けられますが、あまりにも皮肉っぽい 書き方なのでどこまでが本気なのか計りかねます。

おそらくは出版を急いだために体系化があまくなった、と信じたいところです。

上記のような欠点はあるものの、この本はやはり読んでおいてよかったと思う本です。

成熟した社会の先へ

世界は、今日より明日、明日よりその先の未来へ、よりよいものになっていくと 私たちは信じています。

しかしながら、この本はそれが単なる幻想に過ぎないことを示唆します。 事実、連日のように信じられない不祥事や頑迷な官僚主義、目を覆いたくなる暴力への 無関心、安かろう悪かろうになっていく日用品など、その証拠がたくさん目に付く状況です。

ただ時間が過ぎ去るだけでは、より良い未来は手に入りません。それはやはり、 市井の人々の努力にかかっているのです。

本を読む人だけが手にするもの(藤原 和博 著 日本実業出版社)

はじめに

本の紹介です。

本を読む人だけが手にするもの

本を読む人だけが手にするもの

本を読むことは別の人生を歩むこと

序章で「成熟社会では本を読まない人は生き残れない」とあり、以降の章で、著者自身が本を読んでどう変わったか、また著者が調査した統計情報なども踏まえてその理由を詳説しています。

本の中の本の紹介で

またこの本の中で紹介されている書籍で ピーターの法則 というものがあります。

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

ピーターの法則 創造的無能のすすめ

冒頭で紹介した序章のタイトルで「成熟社会」という単語が入っていますが、その言葉の定義について、その語感から得られるものと、 ピーターの法則 の中で展開される定義で大きな隔たりがあり、結構衝撃を受けています。

注意点

この本( 本を読む人だけが手にするもの )を読む際の注意点としては、イデオロギー的にやや偏りがあるので、その点、気をつけるべきかと思います。

その他の部分、冒頭で挙げた序章など、参考になるところは多いです。

多読するべきか

フォーカスリーディング 」や「 無理なく続けられる 年収10倍アップ勉強法 」ではむやみやたらに多読するのではなく、自分にとって真に身になるものに集中して読書するべきであると書かれています。この本では逆に多読を進めています。

そうしないと、自分にとって「良い本」と出会えないからだと言います。たしかに他人にとって良い本が自分にとっても良いとは限りませんからね。

この二つ(多読の是非)は正反対のことを言っているようで、どちらも正しいと感じます。大人になると一見矛盾するように見える二つの事柄も「どちらも真」と感じるようになりました。

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十六講」

はじめに

第十六講の勉強ノートです。標本分散の求め方とカイ二乗分布について書かれています。

統計学を知らなくても、その名前だけは何となく聞いたことがある憧れのカイ二乗分布です。

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免責

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本の紹介

移動の多い仕事は早死にするか

人が作り出す繭のような空間

移動の多い人は早死にするという噂を聞きました。あくまでウワサで、なにも根拠がなく、一笑に付しても構わなかったのですが、なんとなく以下のようなイメージが沸きました。

人は一つところにとどまっていると、身体から「何か」を放出してその人にとって生きるために必要なエネルギーを節約したり、快適さを感じる「繭」のような場所を作り出したりするのではないかと。もちろん悪い場所にとどまっていては論外ですが。

移動が多いということは、その「繭」が作っては捨てられ、作っては捨てられ、身体が渇いたような状態になるのではないでしょうか。その人が長時間とどまるような場所、つまり自宅にいる際、そこはまさに「ホーム」なのに対して移動中はずっと「アウェイ」にいるような感じです。それが疲労に繋がるのではないでしょうか。

最近引っ越しをしたのですが新しい住居の中に居て、移った直後と1〜3週間後ではハッキリ異なる印象を受けています。今までも引っ越しは少なくない方だったので、このような考え方が突飛なものではないと、なんとなく感じることができます。

微生物群

人間の身体から放出されるその「何か」を、オーラと呼ぶのか、気と呼ぶのか、それはその人の哲学次第ではありましょうが、ひょっとしたら「微生物群」と呼んでもいいかもしれません。

この本は「火」「水」「風(空気)」「土」の4元素にまつわる料理を究めようとする著者の試行錯誤の記録です。この「土の料理」の部では「発酵」を取りあげていますが、人間はその「個体」ではなく、共生する微生物群を含めた「生態系」と見なす考え方が紹介されています。

ひょっとしたら、微生物群は人体表面を境にした内側に存在するだけでなく、一定程度「放射」されているのではないでしょうか。

微生物群が人間の住まう住居に自分たちと自分たちの宿主である人間にとって快適な場所を作り出そうとするのは当然かもしれません。逆に人間の方が、なじみ深い微生物群が多く存在する場所を好むという言い方もできます。きっとこれは相互作用なのでしょう。

「あらゆるものは、あらゆる場所に」。微生物たちは何処の場所でも同じ種類のものが存在していることが確認されていると、この本の中にあります。しかし種類が同じだから問題ないかというとそうではないでしょう。人それぞれ特徴があるように、共生する微生物群にも特徴があるはずです(もしかすると単に微生物種の含まれる「割合」かもしれませんが)。人と人に相性があるように、微生物群も、その人が生来持っている__あるいは今までの人生でその身に取り込んだ__ものが構成されるのが理想的であるはずです。

微生物群の好みと人の好み

人が共生する微生物群を引き連れて生活をしていると考える場合、先に「繭」と名付けたものは「コロニー」と呼ぶべきかもしれません。

微生物群がコロニーを作ろうと放射されつつ消費されていくと考えると、やはり移動に伴う疲労がイメージできます。

生まれた場所から遠くは慣れて生活する人が、実家なり郷里に帰ると落ち着いた気分になったりすることがあります。これは土着の微生物群が、生来の微生物群に近く、親しみのあるものだからかもしれません。家庭の味、ふるさとの味が、離れた場所で作ったものよりもとの場所で食べた方が口にあったりするのも、そうした理由なのかもしれません。「十里四方のものを食べる」という古くからの考え方も微生物群にダメージを与えないために納得の知恵です。

引っ越し先

とはいえ、人間の強みはひとえにその「柔軟性の高さ」です。赤道直下から極点の近いところまで人の文化が分布しているのはそれを裏付けます。

引っ越してから3週間ほどで、大分落ち着いた感じになりました。やがて慣れていくでしょう。

祖先が食べていたものと同じものを食べる。

自分又は親の出身地の料理を食べる。

自分の周りを殺菌しすぎない。

自分で発酵食品を作ってみる。

移動の多い生活の中では、自分と共生する微生物群を「意識的に」大切にすることが重要なのではないか。そう感じました。

jQuery の $(document).ready(function (){}); について

書き方は 3.0 から非推奨

有名な JavaScript ライブラリ jQuery にて「HTML がすべて読み込まれてから JavaScript コードが実行されるように」との書き方である以下のようなコードがあります(ありました)。

$(document).ready(function (){/*処理*/});

しかしこの書き方は冗長で、しかも副作用の可能性があるので 3.0 から非推奨になっているようです。代わりに以下のようなコードが推奨されています。

$(function (){/*処理*/});

参考: 知ってた? jQueryのready()メソッドはもう書かなくていいらしい - WPJ

偏見?参考にならないjQueryのページの見分け方 - Qiita

読みやすさ・検索しやすさ

しかしながらコードを読んだときに「HTML の読み込みがすべて完了した段階で実施されること」が解りやすいのは圧倒的に前者です。

今日__いえ昔から__プログラムは作って終わりではありませんし、プログラムにかかわる人間がすべて同じ技術レベルとは限らず、jQuery に明るくない人がチームに加わるかもしれません。しかも、特に JavaScript はライブラリの栄枯盛衰が著しい言語です。jQuery がいつまでも人気のライブラリであるとは限りません(現に下火になりつつあります)。そうなったら jQuery に明るくないエンジニアは増えるでしょう。また、そうなったからといっても、jQuery で作ったプログラムは使われ続けます。往々にしてプログラムの寿命は開発エンジニアの保守担当期間よりずっと長いものです。

読んで理解しやすいコードにしておくことは、どんなときでも重要です。また理解できない場合に備えて検索のしやすさが高い(ググラビティが高い)ことも、きわめて重要です。両方のコードを比較してみてください。どちらが「読みやすい」また「検索しやすい」でしょうか。

今後

したがってバージョンが許す限りは前者の書き方を採用し、非推奨あるいはサポート対象外になったバージョンを使う必要に迫られた場合は、以下のようなコードを採用するようにしたいと考えます。

$(/*document).ready(*/function (){});

省略の美学を持っている人には受け入れがたいことかもしれませんが、さまざまな職場でさまざまなプログラムの保守を引き継いだ経験から見れば、やはり読みやすさは最優先させます。

人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの(松尾豊著 角川EpuB選書)

読んだ本の紹介

永らく「人工知能」という分野に関わって来た著者がいままでの簡単な歴史と、現在ブームが起きている理由、今後の展望について記しています。

人工知能学会の編集委員から委員長までつとめていて、本書の情報量は横の広がりがとても大きい。そればかりではなく過去から未来まで、つまり縦の情報量も広大なものがあります。またもう一つの軸として、人工知能というものをどのように捉えるか__歓迎すべきものなのか畏怖すべきものなのか__についても様々な考え方を紹介しつつ深く考察しており、おおむね楽観的ながらも全体を見渡すことができます。

この本一冊を読めば、現在の社会の中で人工知能がどのような位置づけにあるのか、上記のような様々な軸で把握することができるでしょう。

この本にかかれていないこと

逆にこの本に書かれていないこともあります。

プログラム(ソースコード)、実際の使用方法などは書かれていません。

アルゴリズムについても、「人工知能」と概される技術に対する度を越した期待論とその対極にある悲観論について、冷静に現状を把握する目的で、基本的なアルゴリズムを紹介しているにとどまります。

これらを期待して本書を手に取る人は居ないかもしれませんが、しかしそうした「人工知能」の実務的なユーザーになる前に、本書に書かれている背景を知っておくことは有益であると思います。現代史を学ぶ前に、それ以前の歴史を学ぶような感じです。

併せて読みたい

この本には「フレーム問題」という、無限に計算を繰り返して仕事を終えることが出来ない人工知能の問題が載っています。フレーム問題を解決するには、現状から3段階ほど先の未来に進んでからになるというのが著者の見解です。 浦沢直樹のマンガ「PLUTO」には世界中の人間の人格をインプットされたロボットが無限の選択肢があるためにどの人格を選択すべきか、いつまでも計算が終わらずに目覚めなかったというエピソードが載っていました。作中ではその解決に「偏り」を用いていました。 人工知能と一緒に大きなトレンドになっているビッグデータですが、この「フレーム問題」と「偏り」で解決する手法など、奇妙な一致点があるように思えて興味深いです。

228ページには「機械との競争(エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー日経BP社)」という本が紹介されています。この本では二つの議論がなされているとして、ひとつは科学技術の発展によってなくなる仕事もあるが、代わりに新しい仕事が必ずできる。これまでの200年間はそうであった、というもので「たとえば、耕作機ができて人間は田畑を耕さなくてよくなったが、耕作機をつくる人間、耕作機を使う人間、そして売ったり維持したりする人間が必要になった」もうひとつは「これまでの変化は少数の人だけに影響があるものだったかもしれないが、今回の変化は大多数の人に影響を与えるものかもしれないという点である。そして、富むものと貧しいものの差が広がるということである。(中略)格差や平等について考えるのは重要なことだろう」

サポンテはこう考える

この二つの議論のうち前者は私も同感で、実際、人の(計算という)仕事を肩代わりするはずのパソコンは膨大なエンジニアを生み出しました。それに世界の人口は増え続けています。

後者については、こちらこそ、この200年間で着実に生み出されて来たものではないでしょうか。それまでに存在した「身分」のような制度はなくなったかもしれませんが、それは姿を変えただけで、富の集中と貧困の拡大という問題は、いつの時代も見て見ぬ振りをされてきました。

この二つの議論はいっしょなのでは__つまり「科学技術の発展は貧富の格差を広げるために利用され、『人工知能』はその栄枯盛衰をさらに加速させるだけ」にすぎないのではないか。

田畑を耕していた人びとは地主に利用されていたし、耕作機をつくる人間、使う人間、売ったり維持したりする人間は、耕作機を作って売る会社のオーナーに利用されている。結局のところこの構図は変わりません。社会は相変わらず「人間との競争」のままです。

だから人工知能についても、現状、私の中に期待感はありません。この新しい技術がそれだけで人類にとってより善いものをもたらしてくれるわけでもなく、また人びとの職を奪うことになるとも思いません(※)。ただ「新しい技術のひとつ」として接していくだけです。

※もちろん働き方という点で変化はあるでしょうけれど、それは人工知能の有無とは関係なく今までも起こってきたことです。

技術の進歩や普及は(それだけでは)人類の幸せには寄与しない。それがエンジニアになって身を以て知ったことですし、外の世界に目を向けても南北問題や環境問題、貧富の格差__いずれも悪化している__を、解決する技術があるにもかかわらず、いつまでも解決できないでいることが、それを裏付けています。

この本にも書かれているように、人工知能の研究とは詰まるところ「人間」や「知能」はどのようにできているかを究める道でもあります。やがては「幸せ」や「個性」といったものがどのようにできているかを避けて通ることはできなくなるでしょう。人工知能の研究に私が期待するとしたら、そこの部分でしょうか。