サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

魂のこよみ(ルドルフ・シュタイナー著、秦理恵子訳)

新訳 魂のこよみ

新訳 魂のこよみ

はじめに

こちらもシュタイナーの本です。シュタイナーが多いですが仕方ありません。マイブームです。

この本は原題が「Anthroposofhischer Seelenkalender」、直訳すると「人智学の魂のこよみ」でしょうか。

復活祭__4月。つまり春__を第一週として一年間を52に区切り、その時々にふさわしい詩をシュタイナーは書いています。どうしてこのような詩が書かれたのでしょうか。

一年のめぐり

「こよみ」というと、私たちのスケジュールを管理するための単なる記号に過ぎない「日付」ではなく、生活の中で大切な節目を想起させるなにか「贈り物」のような感じがします。

私たちは生存のために自然環境に依存しています。「季節」というものもまたひとつの、大きな「自然」です。それは宇宙の進行といっても過言ではないでしょう。太陽の周りを地球が公転していることに思い至るなら当然なのですが、意外と季節の移り変わりを「宇宙の進行」だなんてイメージする人は少ないのではないでしょうか。実感の限界をたしかに超えたものですが、知識としてはみんな持っているはず。そしてイメージできるはずです。

季節が私たちに与える印象は、宇宙の進行と私たちの存在をたしかにつなぐもので、そこに思いを馳せることは「魂の飢え」を満たすために必要なことだとシュタイナーは考えているようです。

私たちがいまだに「占星術」や「宇宙」「星座の世界」にけっして少なくない憧憬を持っていることからも、それはたしかに魂を潤すものだと言えるのではないでしょうか。

本が硬い

まず内容のことではなく、物理的に硬いです。硬すぎです。ページをひらくのにかなりの力を入れなければなりません。見開きで左にドイツ語、右に日本語訳となっているのですが、両方を同時に見るのは困難です。

ペーパーバックなのに、柔らかいのは表紙だけで、全体的にはハードカバーより硬い印象です。そのうえ角も鋭く、本を開くのが怖いです。内容に反して、とても恐怖を感じる物体に仕上がっています。

内容的に、いつも__少なくとも週に一度は__開いて読みたいことが書かれているはずなのに、そのような頻度で読むことにはとても抵抗がある硬さです。

この物理的な硬さはなんとかしてほしいです。

内容も硬いかも

内容も、なんだか硬めの言葉が使われています。

この中に書かれている詩は、言語を空間芸術として表現する「オイリュトミー」に使われるため、言葉を選んで、さらに言葉の持つ音を選んで作られていることは間違いありません。翻訳者のかたもオイリュトミストとのことで、翻訳でも、その理念を踏襲していることでしょう。

でもわたしとしては子どもに読んで聞かせてあげたい気持ちもあって、使われている言葉の硬さには少々落胆しました。別のかた(高橋巌)による訳本もあるようです。手に取ってみたことはありませんが、そのかたの他の訳本を見る限りこちらも硬そう。

魂のこよみ (ちくま文庫)

魂のこよみ (ちくま文庫)

詩は、内容もさることながら言葉の持つ音も重要です1。だから日本人は、複雑な日本語でも言葉の音の力を楽しむことができる俳句や川柳が多く親しまれているのでしょう。詩の翻訳はどうしてもそこのところが難しい。

どのくらい硬いかというと、たとえばちょうど最近の「1月5日から1月11日」の詩は次のようになっています。

わたしが精神の深みにいる いま
心の 愛の世界から 発する
わたしの 魂の 奥底では
わが身の むなしい想念が
宇宙の言葉の炎の力に 満たされる。

なんだかどうしても「詩とはかくなる形式で書くものである」といったアカデミックなひな形にすし詰めにされた言葉のように感じます。

日本語とドイツ語の溝の問題

日本語では「述語」が強力な支配権を持っているので、聞いている方は述語を待ち望む気持ちが強いです。そのため長い文は「これが述語か?いや、違った。次が述語か?いや、違った...」と無意識に考えながら聞いています。述語が現れるまで文全体が何を言おうとしているか解らないため、「単語の意味の把握」「把握した意味の記憶」を続けます。長文になると、述語があらわれるまでひたすらこの作業を繰り返すことになります。さらに詩ですから言葉を区切って読むことが多いでしょう。最後の「満たされる」までけっこうな時間がかかることになり、その頃には初めの方がなんだったか忘れてしまいます。

内容を理解するためには何度も読んだり、別の思考作業が必要になります。子どもに読み聞かせる内容としてはあまり適当ではないかもしれません。

たしかにまだ全部理解できないのだとしても、言葉の音の力が子どもの心に良い印象を残すという考え方もあります。それは理解できることです。意味の解らない漢詩素読をひたすら繰り返し、生徒の中でそれが芽吹く瞬間を待つという、いにしえの教法には強いちからがあるからです。

また少し難しい単語があるくらいなら、それは親子間の会話をうながし言葉を覚えたいという子どもの要求に応えるというおおきな意義があります。

しかし文法的な問題で詩の言葉が心の中に染み渡ってくるのを妨げているのは、ややもったいない気もします。

勝手にサポンテ版

前述のように、子どもに読み聞かせるようなものであってほしい。また、日々を生きる私たちに勇気をくれる詩であってほしいと思うのです。

そんなわけで、ちょっと変えてみました。

わたしはいま 精神の深みの中に居ます。
心の 愛の世界から生まれた わたしの魂の奥底では
いま 宇宙の言葉が 炎の力となって
わたしの体の むなしい想念を 満たしていきます。

個人的にはこんな感じが好きです。ドイツ語、知らないので訳として正しいのかどうかはわかりませんが。

ルドルフ・シュタイナーの『魂の暦』とオイリュトミー

ルドルフ・シュタイナーの『魂の暦』とオイリュトミー


  1. 訳者の方はさらに、紙面での言葉の配置に付いても配慮しています。ここで私が表現について色々と言っていることは純粋に私のわがままと偏見であって、訳者にまったく落ち度がないことは記しておきたいです。