サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

ケージ飼いの卵が危険な理由

はじめに

 現代ビジネスに、次のような記事がアップされ、はてなブックマークでも話題になっていました。

日本人が知らない「卵」のアブない現実…世界と「決定的な差」があった(森 映子) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

 サポンテは百鶏園の YouTube チャンネルを好んでチェックするなどニワトリが大好きなので、ケージ飼育の問題は知っていました。しかし記事ではその他に、そのような飼育が蔓延る背景について言及があり、その部分は知らなかったので参考になりました。

 この記事と、ブックマークコメントについて思ったことを述べようと思います。

人間が人間であるために

私たちが植物や動物の中で最もか弱いものをどのように尊敬し、称えるかは、最も偉大なものをどのように尊敬し、称えるかなのである。(ジョエル・サラティン、フード・インク

 人間が、他の動物とは決定的に隔たっていて人間たらしめている点は「力の弱い他者に(ときには種を超えて)同情し、慈しむことができる能力」を備えていることにあると、サポンテは考えています。それを無くしてしまったら、情動のままに活動する動物になってしまう。いや、もっと悪くするならある種の自動機械のようなものに堕してしまうことになります。人間が、まさに人間であるためには、力の弱いものをいかに尊重できるかにかかっていると言えるのではないでしょうか。

 冒頭で紹介したジョエル・サラティンの言葉は、次のような言葉の前にあります。

植物や動物のことを、操作的、自己中心的、かつ機械論的な考え方でとらえる社会は、やがてそこに暮らす人たちのことを同じように考えるようになるだろう。(同)

 これはどういうことでしょうか。

人間社会の現状

 私たちが動植物に対して配慮に欠けた扱いをするのであれば、やがて人間が別の人間のことを同様に扱うようになるというのです。これはほんとうでしょうか。

 もちろん私たちは、人間に対してと動物に対してとではまったく異なった接し方をします。だから「そんな馬鹿な。動物にひどい扱いをしたからといって、人間を同じようにするはずがない」という反論が聞こえてきそうです。

 では、はたして現実はそうなっているでしょうか。確認してみましょう。

 人間社会では、資本家や企業のトップが、末端の労働者に対して手厚く配慮した待遇をしているでしょうか。どのような部署でどのような業務をしていても、ひとりひとりの仕事を尊重し、公平に扱っているでしょうか。有給休暇は必ず取得させることを厳守し、法定最低賃金をあげさせるよう業界団体や政府に働きかけを行なっていたりするでしょうか。それは広く一般化されているでしょうか。

 私たちの社会では、政治家や公務員が、市民をその便益が最大限になるように、ひとりひとりの人生の幸福を考えた施策を実行しているでしょうか。貧困に苦しむ人があれば速やかに迷わず救いの手を差し伸べ、貧富の偏りを是正するよう不断の努力をしているでしょうか。そして、それは広く一般化されているでしょうか。

 現実では、企業が消費者やユーザーを、ただの金蔓だと見なすことなく、その便益が最大になるように製品やサービスを提供しているでしょうか。計画的陳腐化など絶対に行わず、できるだけ長い期間使える製品を提供したり、ソシャゲのガチャのようにほとんど価値のないものに大量課金して身を持ち崩すことがないように最大限の配慮をしているでしょうか。そして、それは広く一般化されているでしょうか。

 サポンテには、そう見えません。

 資本家は労働者を法律スレスレまで搾取しようとし、政治家は福祉の予算を可能な限り削減して富裕層を優遇し、企業は消費者から継続的にカネを巻き上げることに腐心しているように見えます。

ニワトリたちにしていることは、私たちに返ってきている

 ジョエル・サラティンは「やがて」そうなると言っていますが、サポンテには「すでにそうなっている」と思えます。

 私たちは、力の弱い他者に同情し、その他者を利する行動をとることさえできるという、人間だけに与えられた才能を、みすみす手放してはいないでしょうか。

 ブックマークコメントには、以下のようなものがありました。

自分は全くこの投稿を支持しない/日本の卵が安いのはケージ買いのお蔭/アニマルライツ主張したい人は勝手にそういう鶏卵買えばいい。お前らの「動物可哀相」のお気持ちで我々ビンボー人の安い卵を買う権利を奪うな(id:itarumurayama

 これはそのまま、次のように言い換えが可能です。

自分は全くこの投稿を支持しない/日本の製品やサービスが安いのはブラック企業のお蔭/労働者や外国人研修生の権利を主張したい人は勝手にそういう製品・サービス買えばいい。お前らの「労働者可哀相」のお気持ちで我々ビンボー人の安い製品・サービスを買う権利を奪うな

 そしてもちろん、これは言葉遊びの問題ではなく、実際に現実、起きていることだということはご存知の通りです。

 ニワトリたちに起きていることが、私たち自身に返ってきているのは間違いありません。

顔の見えない他者への想像力

 これはどのように繋がっているのでしょうか。

 どちらも、こうした真実は隠される傾向があるという点が共通しています。痛々しい事実は、明るみに出ることが不都合だという人たちがあります。社会的信用が落ちるなど、様々なダメージがあるからです。

 さらに、両者には顔の見えない他者への想像力が欠如しているという点で一致しています。

 貧困や冷遇に喘ぐ労働者の搾取は「そういう問題もあるよね」という感覚しか持てない人が少なくありませんが、もしそういう苦しい立場にいる人が自分の身内だったりしたら、あるいはその人のことをよく知ってしまったら、もっと「なにかしなければいけない」と考えるのではないでしょうか。その違いを生むのは想像力です。

 同様に、顔は見えても言葉を交わすことができないニワトリたちも、想像力を働かせれば「その生態に沿ったニワトリなりの快適な生活や幸福とはなんであろうか」を知ることは難しいことではありません。

 経済的な効率性だけを考えれば、そうした想像力はスイッチをオフにするように閉ざしてしまった方が良い。労働者や消費者を搾取しても、どうせ顔も知らない人間だし、過労死したり心を病んでも代わりは幾らでもいるんだし。ニワトリはただ卵を生産してくれれば、言葉も心も持たないと考えることができるし、ストレスで死んでも代わりは幾らでもいるんだし。

 物質主義的な資本主義や、それに彩られた工業的農業は、このスイッチをオフにすることを要求します。そうしなければ、あまりにも痛々しいからです。

 しかし、力の弱い他者の境遇を豊かに想像し、そこに同情し寄り添うことができる人間としての才能を閉ざしてしまうことでも、人間ははやりその精神性を犠牲にしています。その結果として、人類はかつて何度も、恐るべき領域に足を踏み入れてきたのです。だからこの才能は、人間として最も捨ててはいけない大切なものなのです。

後退する世界

 昨今、この物質主義的な精神性の退廃はごく一般的に広がり、もはや隠そうとすらしなくなってきています。記事の中にあった関係者の開き直りともいえる発言にそれが出ています。日本は海外に遅れをとっていると言うより、むしろ後ろ向きに進もうとしています。実際、アニマルウェルフェアの定義を、日本側からの提案で後退させたことが記事には書かれています。

 ジョエル・サラティンは、上記に引用した文章につづいて次のように書いています。

 工業的な養豚業者は、豚のDNAから取り出すことができるようにと、ストレス遺伝子を見つけ出そうとさえしている。そうすれば、豚は虐待されてもそのことにストレスを感じなくなる可能性がある。そうなれば、もっと狭い豚舎にぎゅうぎゅう詰めに押し込んでも、互いの身体を食いちぎったり病気になったりすることがなくなるというわけだ。あらゆる「まともなこと」の名の下で、いったいどのような倫理観がこうした考えを後押しするのだろうか?(ジョエル・サラティン)

 それが巡り巡って人間社会にどのような結果をもたらすのかは上に書いた通りです。実際、人間のストレス遺伝子をみつけようという研究は現実のものとなっています。

人類が到達したもの

 だから鶏卵に起きていることは「アブない現実」なのです。

 アニマルウェルフェアは、人間がその精神性を犠牲にすることがなくても、人類を存続させることはできるはずだと、未来に手渡そうとして到達した希望の一つなのです。

 私たちは自らのスイッチをオフにするのではなく、目覚めているように努力していなければいけないのです。