サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

動物を殺してきた

 サポンテは現在、ヴィーガンヴィーガニズム)について学んでいます。なので、そのような話題が今後増えていくことが予想されますが、その前に言っておかなければならないことがあります。

 サポンテは動物を殺してきました。そして、今後も機会があれば殺すことになると思います。その話をしたいと思います。

サポンテのやっていたこと

 水稲合鴨農法で作っていたことがあります。今はやっていません。

 合鴨農法と一口にいっても、いろいろなやり方があるので、サポンテがやっていたものが全てではありません。合鴨農法の全てが以下に述べるようなやり方をしているわけではないと思ってください。

 まず合鴨は毎年入れ替えます。ヒナを買い、田植えの直後に導入します。いきなり親ガモを導入すると、稲が負けてしまうため、小さい子ガモを導入して稲と一緒に成長してもらう感じにします。ですから、稲が穂をつけ始める3ヶ月ほどでカモ達の役目は終わりになります。それ以降は、穂を食べてしまうため田には放しません。ここでカモを全て殺すことになります。

 「シメる」という言い方もありますが、それには「殺す」の他に「食用肉にする」という意味が含まれている気がします。サポンテは食用肉にしていたので「シメる」を使っても良いのですが、この言葉は、なにか刺激の強い言葉を柔らかいものに包んで誤魔化している婉曲表現であるかのような印象もあります。サポンテは、自分のしてきたことはしてきたこととしてちゃんと言わないといけないと思うので、ここでは「殺す」と言っておこうと思います。

合鴨農法の利点

 合鴨農法とはなんでしょうか。どんな利点があって、そのような農法ができたのでしょうか。

 まず、田の水をかき回すので除草効果があります。虫を食べるので、除虫効果もあります(もちろん害虫益虫区別してくれませんが)。フンは肥料になります。稲の間の空気を動かし循環させます。稲の株元をつつき、分蘖ぶんけつ(新芽の発生)を促します。これらのことを人間に代わってやってくれるので省力化につながります。

 また水稲と水禽を(言い方を変えると米と肉を)同時に育てることができるという側面もあります。

 これらの利点があります。最近ではこれをロボットで置き換えようとする話もありますが、ロボットに期待できるのは除草効果だけです。他の利点はありませんので、総合的に合鴨の方が勝ります。

デメリット

 カモの世話という手間があります。毎日小屋から出してしまって給餌してという手間があります。毎日田んぼに行ける人がいないとできません。

 穂が出た後、カモの処遇に困るという問題もあります。上に書いた通り、翌年の春に同じカモを使うことはできないためです。いろいろな人がいます。食用として出荷する人もいれば、ただ焼却してしまう人もいると聞きました。サポンテは自分でシメて、自分の食用肉(資格と設備がない場合、他人に供することはできない)としていました。

3ヶ月の命

 その間、わずか3ヶ月の命です。寿命まで生きれば4〜6年でしょうか。若いというよりも幼いといって良い生です。じっさい、その年ごとによって違いますが、殺すときにはまだ体は小さいです。

殺し方

 様々なやり方があるそうですが、サポンテが知っているのは頸動脈を切って血を抜き、失血死させる方法です。それがもっとも痛みが少ないと言われています。

 このとき、カモが首をすぼめてしまうと、傷口はすぐに塞がってしまいます。カモの血は、とても粘度が高いのです。そのため、失血死するまで首が伸び切った状態を維持させます。専用の道具も存在しますが、サポンテが飼っていたのは少羽数だったのでそんなものは買わず、手で抑えていました。カモは悲鳴を上げ、必死に、力いっぱい暴れます。体温を持った血が手の上を流れていきます。やがて痺れたように足を伸ばし「生命が終わった」という瞬間が、抑えつけている手を通して伝わってきます。

そのときの気持ち

 その間、約2分から3分の間1、心の中でカモに謝り続けています。カモが命を差し出してくれているのに対して、何もできない申し訳なさのようなものを感じています。感傷的だと思われるでしょうか。心のスイッチをオフにして何も感じないように冷淡に作業を続けていれば楽なのだろうと思います。「認知的不調和低減テクニック」という名前もあるそうですね。それを正当化する理由を考えてくれる人もたくさんいるでしょう。

 でもサポンテはそうしたくないのです。小なりとも動物を殺めるのは心苦しいものです。その苦い感覚を、無視したくないのです。自分の中に生じる痛みを避けるのは、奪おうとしている生命に対して礼を欠くと感じるためです。ただでさえ一方的で残酷な行為に対して、なんの代償もなく済ませようとするのは、敬意を欠いていると考えるのです。

 いつか、この痛みに耐えられなくなったら肉食を止めようと思っています。反対にいうと、肉食を続ける限りはこの痛みを受け続けなければならないと思っています。痛みを引き受けることなく肉食を続けるのは、いささか姑息であると思うのです。

命をいただく

 よく「命は命を食べて生きているのだ2」「だから野菜を食べるのも肉を食べるのも同じだ」と、軽々に肉食を肯定する人がいます。その人は、はたして痛みから目を逸らすことなく自身の手でちゃんと引き受けたことがあって、その上で言っているのでしょうか。

 植物も動物も確かに命という、言葉の上では同じ分類になります。ではレタスを収穫するのとまったく同じ気持ちで、動物の首を落とすことが、その人にはできるというのでしょうか。悲鳴を上げながら暴れる体を押さえつけ、体温の残る血をその手に受けて命を奪う行為を、実際にやってみた上で「同じ」だと口にしているのでしょうか。

 動物を殺すときに感じる苦み、痛みだけをだれかに押し付けて肉食を続けながら、したり顔でそれを口にしていたりしないでしょうか。

 テレビでは、ニュースなどで野菜の収穫風景を目にすることがたびたびあります。しかし、屠畜の様子を目にすることは決してありません3。それはどうしてでしょうか。

 幼児や小学生は、その行事の中で「芋掘り」を体験します。しかし鶏や豚の解体をする行事はありません。それはどうしてでしょうか。どちらも生活に結びついた、大切な営みではないのでしょうか。

 「植物も動物も同じ命である」。サポンテにとってそれは、言葉遊びに過ぎないと思えるのです。

残酷であるとの批判

 動物を殺す行為を残忍だというヴィーガニズムの批判は、適切です。

 それに反論して「残酷だけれど、生きていくために必要だ」という主張することはできるでしょう。それはまだ可能であると、サポンテは考えます。しかし「残酷ではない」という主張は正しくありません。苦痛を感じる器官を持つ生き物を殺すことが残酷ではないという主張は、正しくありません。残酷は残酷なのです。

 サポンテは、肉食を続ける限りは、自分をその残酷さの外側に置きたくありません。自分の残忍さに向かい合っていたいと思います。それはそれで心を削っているような感覚はありますが、そうしないと、人間としてもっと大切な何かを失うと思うのです4。しかも自分が奪ってきた命に対する代償としては、心の痛みなどあまりにも微々たるものです。その程度のものを感じたくないというのは、怯懦に過ぎると思うのです。

これから

 最初に書いた通り、サポンテはこれからも肉食を続けていくでしょうし、そのために機会があればまた動物を殺すでしょう。ですが、きっとどちらも最小限であればと思って行動すると思います。

 だから肉食をする人は、同じように積極的に動物を殺して欲しいと思います。自分でやらないと、なかなか残酷さを実感することはできないでしょう。だから食肉消費量は増え続けているのだと思います。残酷さから目を逸らした結果、より多くが殺されているのです。残酷さから目を逸らした結果、世界により一層の残酷さをもたらしたのです。そして軽率にも「命は命」などと言えるのです。

 この記事はヴィーガンの方にはもちろんのこと、肉食を肯定する人、どちらからも反感を買うかもしれません。でも自分の食べているものが「命」だとわかっているならば、その重さを正しく測った上で選択しなければいけないと、サポンテは思うのです。


  1. もちろん、全体の工程はもっと長いです。一人だけで作業しているので、全体の工程では一羽あたり四十分から五十分ほどかかります。

  2. その理屈では人肉食も正当化されませんか?

  3. 屠畜の様子を目にしないばかりか(一般的な)畜産過程さえ、ほとんど目にしません。

  4. 念のために付け加えておきたいのですが、職業的に屠畜を行なっている方を批判する意図はまったくありません。それがどんなにたいへんな仕事であるかは理解し、敬意を持っているつもりです。ここでは、そうした職責に思い致すこともなく「美味しい」ところだけを享受しながら「命」を語る軽薄さを批判しています。