はじめに
第十六講の勉強ノートです。標本分散の求め方とカイ二乗分布について書かれています。
統計学を知らなくても、その名前だけは何となく聞いたことがある憧れのカイ二乗分布です。
免責
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移動の多い人は早死にするという噂を聞きました。あくまでウワサで、なにも根拠がなく、一笑に付しても構わなかったのですが、なんとなく以下のようなイメージが沸きました。
人は一つところにとどまっていると、身体から「何か」を放出してその人にとって生きるために必要なエネルギーを節約したり、快適さを感じる「繭」のような場所を作り出したりするのではないかと。もちろん悪い場所にとどまっていては論外ですが。
移動が多いということは、その「繭」が作っては捨てられ、作っては捨てられ、身体が渇いたような状態になるのではないでしょうか。その人が長時間とどまるような場所、つまり自宅にいる際、そこはまさに「ホーム」なのに対して移動中はずっと「アウェイ」にいるような感じです。それが疲労に繋がるのではないでしょうか。
最近引っ越しをしたのですが新しい住居の中に居て、移った直後と1〜3週間後ではハッキリ異なる印象を受けています。今までも引っ越しは少なくない方だったので、このような考え方が突飛なものではないと、なんとなく感じることができます。
人間の身体から放出されるその「何か」を、オーラと呼ぶのか、気と呼ぶのか、それはその人の哲学次第ではありましょうが、ひょっとしたら「微生物群」と呼んでもいいかもしれません。
この本は「火」「水」「風(空気)」「土」の4元素にまつわる料理を究めようとする著者の試行錯誤の記録です。この「土の料理」の部では「発酵」を取りあげていますが、人間はその「個体」ではなく、共生する微生物群を含めた「生態系」と見なす考え方が紹介されています。
ひょっとしたら、微生物群は人体表面を境にした内側に存在するだけでなく、一定程度「放射」されているのではないでしょうか。
微生物群が人間の住まう住居に自分たちと自分たちの宿主である人間にとって快適な場所を作り出そうとするのは当然かもしれません。逆に人間の方が、なじみ深い微生物群が多く存在する場所を好むという言い方もできます。きっとこれは相互作用なのでしょう。
「あらゆるものは、あらゆる場所に」。微生物たちは何処の場所でも同じ種類のものが存在していることが確認されていると、この本の中にあります。しかし種類が同じだから問題ないかというとそうではないでしょう。人それぞれ特徴があるように、共生する微生物群にも特徴があるはずです(もしかすると単に微生物種の含まれる「割合」かもしれませんが)。人と人に相性があるように、微生物群も、その人が生来持っている__あるいは今までの人生でその身に取り込んだ__ものが構成されるのが理想的であるはずです。
人が共生する微生物群を引き連れて生活をしていると考える場合、先に「繭」と名付けたものは「コロニー」と呼ぶべきかもしれません。
微生物群がコロニーを作ろうと放射されつつ消費されていくと考えると、やはり移動に伴う疲労がイメージできます。
生まれた場所から遠くは慣れて生活する人が、実家なり郷里に帰ると落ち着いた気分になったりすることがあります。これは土着の微生物群が、生来の微生物群に近く、親しみのあるものだからかもしれません。家庭の味、ふるさとの味が、離れた場所で作ったものよりもとの場所で食べた方が口にあったりするのも、そうした理由なのかもしれません。「十里四方のものを食べる」という古くからの考え方も微生物群にダメージを与えないために納得の知恵です。
とはいえ、人間の強みはひとえにその「柔軟性の高さ」です。赤道直下から極点の近いところまで人の文化が分布しているのはそれを裏付けます。
引っ越してから3週間ほどで、大分落ち着いた感じになりました。やがて慣れていくでしょう。
祖先が食べていたものと同じものを食べる。
自分又は親の出身地の料理を食べる。
自分の周りを殺菌しすぎない。
自分で発酵食品を作ってみる。
移動の多い生活の中では、自分と共生する微生物群を「意識的に」大切にすることが重要なのではないか。そう感じました。
有名な JavaScript ライブラリ jQuery にて「HTML がすべて読み込まれてから JavaScript コードが実行されるように」との書き方である以下のようなコードがあります(ありました)。
$(document).ready(function (){/*処理*/});
しかしこの書き方は冗長で、しかも副作用の可能性があるので 3.0 から非推奨になっているようです。代わりに以下のようなコードが推奨されています。
$(function (){/*処理*/});
参考: 知ってた? jQueryのready()メソッドはもう書かなくていいらしい - WPJ
偏見?参考にならないjQueryのページの見分け方 - Qiita
しかしながらコードを読んだときに「HTML の読み込みがすべて完了した段階で実施されること」が解りやすいのは圧倒的に前者です。
今日__いえ昔から__プログラムは作って終わりではありませんし、プログラムにかかわる人間がすべて同じ技術レベルとは限らず、jQuery に明るくない人がチームに加わるかもしれません。しかも、特に JavaScript はライブラリの栄枯盛衰が著しい言語です。jQuery がいつまでも人気のライブラリであるとは限りません(現に下火になりつつあります)。そうなったら jQuery に明るくないエンジニアは増えるでしょう。また、そうなったからといっても、jQuery で作ったプログラムは使われ続けます。往々にしてプログラムの寿命は開発エンジニアの保守担当期間よりずっと長いものです。
読んで理解しやすいコードにしておくことは、どんなときでも重要です。また理解できない場合に備えて検索のしやすさが高い(ググラビティが高い)ことも、きわめて重要です。両方のコードを比較してみてください。どちらが「読みやすい」また「検索しやすい」でしょうか。
したがってバージョンが許す限りは前者の書き方を採用し、非推奨あるいはサポート対象外になったバージョンを使う必要に迫られた場合は、以下のようなコードを採用するようにしたいと考えます。
$(/*document).ready(*/function (){});
省略の美学を持っている人には受け入れがたいことかもしれませんが、さまざまな職場でさまざまなプログラムの保守を引き継いだ経験から見れば、やはり読みやすさは最優先させます。
永らく「人工知能」という分野に関わって来た著者がいままでの簡単な歴史と、現在ブームが起きている理由、今後の展望について記しています。
人工知能学会の編集委員から委員長までつとめていて、本書の情報量は横の広がりがとても大きい。そればかりではなく過去から未来まで、つまり縦の情報量も広大なものがあります。またもう一つの軸として、人工知能というものをどのように捉えるか__歓迎すべきものなのか畏怖すべきものなのか__についても様々な考え方を紹介しつつ深く考察しており、おおむね楽観的ながらも全体を見渡すことができます。
この本一冊を読めば、現在の社会の中で人工知能がどのような位置づけにあるのか、上記のような様々な軸で把握することができるでしょう。
逆にこの本に書かれていないこともあります。
プログラム(ソースコード)、実際の使用方法などは書かれていません。
アルゴリズムについても、「人工知能」と概される技術に対する度を越した期待論とその対極にある悲観論について、冷静に現状を把握する目的で、基本的なアルゴリズムを紹介しているにとどまります。
これらを期待して本書を手に取る人は居ないかもしれませんが、しかしそうした「人工知能」の実務的なユーザーになる前に、本書に書かれている背景を知っておくことは有益であると思います。現代史を学ぶ前に、それ以前の歴史を学ぶような感じです。
この本には「フレーム問題」という、無限に計算を繰り返して仕事を終えることが出来ない人工知能の問題が載っています。フレーム問題を解決するには、現状から3段階ほど先の未来に進んでからになるというのが著者の見解です。 浦沢直樹のマンガ「PLUTO」には世界中の人間の人格をインプットされたロボットが無限の選択肢があるためにどの人格を選択すべきか、いつまでも計算が終わらずに目覚めなかったというエピソードが載っていました。作中ではその解決に「偏り」を用いていました。 人工知能と一緒に大きなトレンドになっているビッグデータですが、この「フレーム問題」と「偏り」で解決する手法など、奇妙な一致点があるように思えて興味深いです。
228ページには「機械との競争(エリック・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー、日経BP社)」という本が紹介されています。この本では二つの議論がなされているとして、ひとつは科学技術の発展によってなくなる仕事もあるが、代わりに新しい仕事が必ずできる。これまでの200年間はそうであった、というもので「たとえば、耕作機ができて人間は田畑を耕さなくてよくなったが、耕作機をつくる人間、耕作機を使う人間、そして売ったり維持したりする人間が必要になった」もうひとつは「これまでの変化は少数の人だけに影響があるものだったかもしれないが、今回の変化は大多数の人に影響を与えるものかもしれないという点である。そして、富むものと貧しいものの差が広がるということである。(中略)格差や平等について考えるのは重要なことだろう」
この二つの議論のうち前者は私も同感で、実際、人の(計算という)仕事を肩代わりするはずのパソコンは膨大なエンジニアを生み出しました。それに世界の人口は増え続けています。
後者については、こちらこそ、この200年間で着実に生み出されて来たものではないでしょうか。それまでに存在した「身分」のような制度はなくなったかもしれませんが、それは姿を変えただけで、富の集中と貧困の拡大という問題は、いつの時代も見て見ぬ振りをされてきました。
この二つの議論はいっしょなのでは__つまり「科学技術の発展は貧富の格差を広げるために利用され、『人工知能』はその栄枯盛衰をさらに加速させるだけ」にすぎないのではないか。
田畑を耕していた人びとは地主に利用されていたし、耕作機をつくる人間、使う人間、売ったり維持したりする人間は、耕作機を作って売る会社のオーナーに利用されている。結局のところこの構図は変わりません。社会は相変わらず「人間との競争」のままです。
だから人工知能についても、現状、私の中に期待感はありません。この新しい技術がそれだけで人類にとってより善いものをもたらしてくれるわけでもなく、また人びとの職を奪うことになるとも思いません(※)。ただ「新しい技術のひとつ」として接していくだけです。
※もちろん働き方という点で変化はあるでしょうけれど、それは人工知能の有無とは関係なく今までも起こってきたことです。
技術の進歩や普及は(それだけでは)人類の幸せには寄与しない。それがエンジニアになって身を以て知ったことですし、外の世界に目を向けても南北問題や環境問題、貧富の格差__いずれも悪化している__を、解決する技術があるにもかかわらず、いつまでも解決できないでいることが、それを裏付けています。
この本にも書かれているように、人工知能の研究とは詰まるところ「人間」や「知能」はどのようにできているかを究める道でもあります。やがては「幸せ」や「個性」といったものがどのようにできているかを避けて通ることはできなくなるでしょう。人工知能の研究に私が期待するとしたら、そこの部分でしょうか。
中高生向けに書かれた LGBT についての本です。(自分は中高年ですが…)
往々にして誤解されるのですが、こうした本の多くは LGBT の人だけに向けて書かれた本ではありません。
以前、週刊金曜日に連載があった「同性愛者から世間を見れば」という連載で、はじめは差別の問題として興味を持ち、この差別についての自分なりの立ち位置を確定することができました。また性とは人間を構成する要素として、とても重く大きなものであるため、学んだことはアイデンティティの確立にもかなり寄与しました。非常に感謝しています。
さてこの本で知りたかったのは、最新の数字や最近の当事者の不安、実際に出会う困難、未だに残る偏見はどのようなものであるのか、ということでした。
この本には、2015年、電通ダイバーシティ・ラボというところの調査で日本人の 7.6% が LGBT であるとの調査結果が載っていました。期待していたより新しい年の調査です。
電通ダイバーシティ・ラボが「LGBT調査2015」を実施 - ニュースリリース一覧 - ニュース - 電通
また 2015年の4月に「文部科学省から『性的マイノリティの生徒に配慮するように』という通知があり」、2016年の4月には「その通知を徹底するための資料が出され」たとのこと。残念ながら「そのことを知らない先生もまだまだ」いるとのこと。
性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ細かな対応の実施等について:文部科学省
この本は Q&A 方式になっていて、最初の章に「『ふつう』って、なに??」と題して、マイノリティと自覚したりし始めたりした時に抱く劣等感のような疑問と、その回答が書かれています。
「人と競争して勝ちすすんでいく。そういう生き方をあなたがしたいかどうかは、自分で考えていくしかありません」
「思春期に入ると、おとなを見る目が厳しくなるけれど、同時に自分を見る目も厳しくなります」
「ひとりになりたいなって思うときがあります。でもひとりでいると『ぼっち』と言われるので、がまんしています」
でもこれらって、LGBT かどうかに関係のない悩みですよね。社会のゆがみや人としての悩み、生きにくさのようなものが若者たちに、特にマイノリティの若者達にしわ寄せのように働いている。だからこそ大人たち、特にマジョリティの大人たちこそ、積極的に学ぶべきだと思うのです。
「(アメリカでは)教科書はもちろん、いろんな本に、多様な人たちが登場します。そうして多様な人たちがいることを、目に見える形にしているのです。」
「でも『興味がわかない』というのはちょっと残念…。 修道女として貧しい人につくしたマザーテレサも言っています。『愛の反対は無関心』だと。 関係ないとか、興味がないと言う人が多いと、差別や偏見はなかなかよくなりません。」
反対に関心があっても、日常の中で非当事者が声を上げる機会は今まで多くありませんでした。(自分が知らなかっただけかもしれませんが)最近ではアライアンスといって、そうした立場をとることもしやすくなっていることに本の中では触れられていました。
この本では「こころの性」「身体の性」「社会の性」「好きになる性」という4つの指標が示されていました。
「こころの性」とは、自分が自分の性別をなんだと思っているか、に当たります。 「身体の性」とは、自分の身体の特徴がどのような性別になっているか。
この二つが一緒であることは、マジョリティの人たちが思っているほど多くはありません。
「社会の性」は、ジェンダーと呼ばれているものです(が、もう少し広いかもしれません)。 「好きになる性」は、恋愛対象としてどの辺りを選択するか、ということです。
すべて「男」「女」の二者択一ではありません。それぞれグラデーションのようになっています。未だに割とここら辺が分っていない人が多いので、この本には図もありますから熟読してみると良いと思います。20年前ならともかく、今後の社会では共通理解でしょうから。
とは言うものの、私もこの本を読んで新たに勉強になったこともあります。
「同性愛者から世間を見れば」の時代にはまだ LGBT という言葉はそこまで社会に浸透しておらず、連載もタイトル通り LG を中心にした内容でした。その連載で語られていたのは主に「好きになる性」についてだけだったように思います。この連載を糸口に読んだ別の本で人間の多様さ、神秘性について大きく心を動かされました。
我が国では、未だ同性愛者は差別を受けています(そう言い切れるのは単純に法的に結婚できないから。けれど結婚が可能になったからと言って即差別が解消されたとはもちろん言えません)。
かつて同性愛は「異常」で「病気」とされていましたが、現代では「正常」で「健康」であることが判っています。
しかしそれが未だに広く周知のものとなっていないのは__もちろん人びとの無関心も多いですが__次のような差別意識があるからです。
曰く「オスとメスの性があり生殖器があるのは繁殖のためであり、生命として子孫を残すために異性を愛するのが自然のことだから、同性愛は自然に反するもの」と。
しかしこれは根拠がありません。なぜ根拠がないかというと、野生動物の中にも同性愛行為が一定の割合で見られるためです。その割合は、やはり人間社会の中の割合と近似しています。自然に反するどころか、自然に近いと言ってよいでしょう。
また欧米では、これを根拠に同性愛を「動物的で、非人間的行為だ」といって差別をしています。
片や「不自然」を理由に、もう一方は「自然的」であることを理由に差別をしています。なんとも滑稽です。
つまり差別に理由などありません。あっても後付けです。差別したい気持ちが先ずあり、それが小手先の理由をでっち上げるだけなのです。すべての差別に理由などありません。
私が差別を忌避するのは「理由があれば差別をしてよい」という気持ちが「差別をしたい」気持ちに繋がってしまうからです。そしてそれがやがて「理由があれば自分が差別されることも受け入れる」ことに繋がるからです。
第十四講の勉強ノートです。正規母集団の解説と、その正規母集団から得られる標本平均についての解説です。
十一講から第二部に入っているのですが、なにか第二部からぐっと難しくなった気がします。しかしノートを読み返してみると、それらの知識は一つの流れとして繋がっていることがわかります。
また、読み返してみると、書き直したい気持ちにもなってきます。3回くらい清書を繰り返せば納得いくものができるでしょうか。
ノートには著作権法に抵触しないよう、自主規制が入ります。
この本は Amazon でとにかくレビューが多くてレーティングが高い(星の数が多い)ので買いました。持っている方も多いのではないでしょうか。まだ読み終わっていないのですが、とても良い感じがします。