本の紹介
中高生向けに書かれた LGBT についての本です。(自分は中高年ですが…)
往々にして誤解されるのですが、こうした本の多くは LGBT の人だけに向けて書かれた本ではありません。
以前、週刊金曜日に連載があった「同性愛者から世間を見れば」という連載で、はじめは差別の問題として興味を持ち、この差別についての自分なりの立ち位置を確定することができました。また性とは人間を構成する要素として、とても重く大きなものであるため、学んだことはアイデンティティの確立にもかなり寄与しました。非常に感謝しています。
さてこの本で知りたかったのは、最新の数字や最近の当事者の不安、実際に出会う困難、未だに残る偏見はどのようなものであるのか、ということでした。
最新の数字
この本には、2015年、電通ダイバーシティ・ラボというところの調査で日本人の 7.6% が LGBT であるとの調査結果が載っていました。期待していたより新しい年の調査です。
電通ダイバーシティ・ラボが「LGBT調査2015」を実施 - ニュースリリース一覧 - ニュース - 電通
また 2015年の4月に「文部科学省から『性的マイノリティの生徒に配慮するように』という通知があり」、2016年の4月には「その通知を徹底するための資料が出され」たとのこと。残念ながら「そのことを知らない先生もまだまだ」いるとのこと。
性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ細かな対応の実施等について:文部科学省
当事者の不安
この本は Q&A 方式になっていて、最初の章に「『ふつう』って、なに??」と題して、マイノリティと自覚したりし始めたりした時に抱く劣等感のような疑問と、その回答が書かれています。
「人と競争して勝ちすすんでいく。そういう生き方をあなたがしたいかどうかは、自分で考えていくしかありません」
「思春期に入ると、おとなを見る目が厳しくなるけれど、同時に自分を見る目も厳しくなります」
「ひとりになりたいなって思うときがあります。でもひとりでいると『ぼっち』と言われるので、がまんしています」
でもこれらって、LGBT かどうかに関係のない悩みですよね。社会のゆがみや人としての悩み、生きにくさのようなものが若者たちに、特にマイノリティの若者達にしわ寄せのように働いている。だからこそ大人たち、特にマジョリティの大人たちこそ、積極的に学ぶべきだと思うのです。
当事者以外の無関心
「(アメリカでは)教科書はもちろん、いろんな本に、多様な人たちが登場します。そうして多様な人たちがいることを、目に見える形にしているのです。」
「でも『興味がわかない』というのはちょっと残念…。 修道女として貧しい人につくしたマザーテレサも言っています。『愛の反対は無関心』だと。 関係ないとか、興味がないと言う人が多いと、差別や偏見はなかなかよくなりません。」
アライアンス
反対に関心があっても、日常の中で非当事者が声を上げる機会は今まで多くありませんでした。(自分が知らなかっただけかもしれませんが)最近ではアライアンスといって、そうした立場をとることもしやすくなっていることに本の中では触れられていました。
4つの指標
この本では「こころの性」「身体の性」「社会の性」「好きになる性」という4つの指標が示されていました。
「こころの性」とは、自分が自分の性別をなんだと思っているか、に当たります。 「身体の性」とは、自分の身体の特徴がどのような性別になっているか。
この二つが一緒であることは、マジョリティの人たちが思っているほど多くはありません。
「社会の性」は、ジェンダーと呼ばれているものです(が、もう少し広いかもしれません)。 「好きになる性」は、恋愛対象としてどの辺りを選択するか、ということです。
すべて「男」「女」の二者択一ではありません。それぞれグラデーションのようになっています。未だに割とここら辺が分っていない人が多いので、この本には図もありますから熟読してみると良いと思います。20年前ならともかく、今後の社会では共通理解でしょうから。
とは言うものの、私もこの本を読んで新たに勉強になったこともあります。
「同性愛者から世間を見れば」の時代にはまだ LGBT という言葉はそこまで社会に浸透しておらず、連載もタイトル通り LG を中心にした内容でした。その連載で語られていたのは主に「好きになる性」についてだけだったように思います。この連載を糸口に読んだ別の本で人間の多様さ、神秘性について大きく心を動かされました。
差別したい気持ち
我が国では、未だ同性愛者は差別を受けています(そう言い切れるのは単純に法的に結婚できないから。けれど結婚が可能になったからと言って即差別が解消されたとはもちろん言えません)。
かつて同性愛は「異常」で「病気」とされていましたが、現代では「正常」で「健康」であることが判っています。
しかしそれが未だに広く周知のものとなっていないのは__もちろん人びとの無関心も多いですが__次のような差別意識があるからです。
曰く「オスとメスの性があり生殖器があるのは繁殖のためであり、生命として子孫を残すために異性を愛するのが自然のことだから、同性愛は自然に反するもの」と。
しかしこれは根拠がありません。なぜ根拠がないかというと、野生動物の中にも同性愛行為が一定の割合で見られるためです。その割合は、やはり人間社会の中の割合と近似しています。自然に反するどころか、自然に近いと言ってよいでしょう。
また欧米では、これを根拠に同性愛を「動物的で、非人間的行為だ」といって差別をしています。
片や「不自然」を理由に、もう一方は「自然的」であることを理由に差別をしています。なんとも滑稽です。
つまり差別に理由などありません。あっても後付けです。差別したい気持ちが先ずあり、それが小手先の理由をでっち上げるだけなのです。すべての差別に理由などありません。
私が差別を忌避するのは「理由があれば差別をしてよい」という気持ちが「差別をしたい」気持ちに繋がってしまうからです。そしてそれがやがて「理由があれば自分が差別されることも受け入れる」ことに繋がるからです。