サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

# ユートピアだより(ウィリアム モリス (著), William Morris (原著), 川端 康雄 (翻訳) 晶文社)

ウィリアム=モリス

この本はウィリアム=モリスが書いた小説です。

ウィリアム=モリスは19世紀に、主にデザイナーとして著名な作品を残した方です。壁紙など一部の作品は現在も生産が続けられるなど、時代を超えた「大定番」のデザインを作った方です。ウィリアム=モリスの名前を知らなくても「あ、このデザイン見たことある」という方も多いのではないでしょうか。

ウィリアム=モリスが活躍した時代は、「大量生産」「大量消費」の現代文明が作られ始めた頃で、デザインも「質より量」の変化にさらされました。モリスはこの風潮を批判し、家内制手工業的な生産活動こそが高品質を維持しうるものであると主張しました。残念ながら世界の趨勢は__皆様のご存知の通り__モリスの危惧し憂いたとおりの方向へ進んでいきました。美術館に残されたものを見れば、この時代を境に確かな変化があったことが痛感できます。現在生産が続けられているモリスの作品は、当時と同じ製造工程を経ていて、当時と同じ品質を維持するなみなみならぬ努力が続けられています。

モリス以降、比肩すべきデザイナーは居ないこともないのですが、モリスの名前が歴史の中でひときわ大きなものとして残っているのは、その活動が多岐にわたったことが大きいためであるように思います。モリスはけっして専業デザイナーではなかったのです。しかも、それぞれの領域で大きな業績を残しています。

モリスの小説の代表作であるこの作品にも、こうしたモリスの多角的な仕事が結実しています。惜しむらくは、同時にその限界を示していると言えなくもありません。描かれている風景や建物、室内の装飾は美しく描かれていますが、音楽に関する描写は多くないという点で 奇跡のエコ集落 ガビオタス と好対照です。

本の内容

日々に疲労した社会運動家が寝苦しい夜を過ごした翌朝、21世紀の同じ場所に目覚める、という内容です。

そこで暮らす人々は「財産」や「政府」という概念を持たず、健康的で若々しく美しい容姿を持っており、風景を美しくすることを尊び、労働を喜びとする。強い連帯感はないけれど、誰でもいつでも助けてくれる絶対的な安心感がある世界(ここは ガビオタスアーミッシュ と同じですね)。

主人公はその世界で二日ほど暮らした後、いつもの(19世紀の)部屋で目を覚ます。それは夢だったけれど、疲れはなくなり、心の中に光りが差し込んでいる。

どこでもない場所

ユートピアを扱った物語をそんなに読んでいるわけではないのですが、この本は「その状態に至るまでの経過」について詳しく書いている点で他との違いがあるとのことです。

最近読んだ別の本で 奇跡のエコ集落 ガビオタス というものがありますが、こちらは経過というか、まさに現在形成中のユートピアです。もっとも代表者は「トピア」と呼んでいるそうですが。

この「ユートピアだより」は、原題では「どこでもない場所からのニュース」みたいな感じです。ユートピアはもともと「どこでもない場所」という意味でした(対して「トピア」は場所)。ですが現代ではほとんど「理想的な場所」という意味になっています。

この本で登場するのは、主人公が眠りに落ちた場所、つまりもともとは特別な場所でもなんでもないご近所でした。

理想郷はどこかにあるのではなく、自分の足下に作っていくものだという社会運動家としてのモリスの心がこもっているように思います。

ユートピアに至る道

それは主人公が21世紀で出会った老人の口から語られます。

けっして生易しい道ではなかったけれど、それを乗り越えて到達したその世界は、やはり美しく描写されていました。

こうした美しい物語を読むのは、自分の心の中にその空気を取り込むような気がして心地よいだけでなく、自分の目指すべきところを確認するためにも必要なことであるように思います。たとえそれがまったく自分の目的地と同一でなくても、そうした道を歩もうとした先人がいたという事実からは勇気をもらうことができますし、自分の理想と比べることで、自分の中に在るイメージがより具体的になってもいきます。

心を惹かれる言葉

しかし金持ちを貧民から、強者を弱者から保護するということ以外のいかなる目的のために、その<政府>は存在したのでしょうか

この言葉は、やはり心えぐられる思いがします。その部分において、100年の間、進歩がないからです。

どう見ても、文明の最後の時代に人は物品の生産という問題で悪循環におちいってしまったようですね。かれらは見事なまでに楽々と生産できるようになりました。その便利さを最大限に生かすために、しだいしだいに、この上なく込み入った売買のシステムをつくりだしました(というか、そうしたものを発達させました)。<世界市場>と呼ばれるものです。その<世界市場>は、いったん動きだすと、物品の必要あるなしにかかわらず、ますます大量に生産しつづけるように強制しました。その結果、ほんとうに必要な品々をつくる苦労から解放されることは(当然ながら)できませんでしたが、にせの必需品、あるいは人為的な必需品を際限なく生み出すことになりました。そうしたものは、いま言った<世界市場>の鉄則のもとで、人々にとっては、生活を支えるほんとうの必需品とおなじくらいに重要なものになってしまったのです。おかげで人々は、ひたすらその悲惨な制度を維持するだけのために、とてつもなく多くの仕事を背負いこむはめになったのです

まだスマホタブレット端末もネット依存もない100年以上もの前からこの「悲惨な制度」が続いていることは驚きでしたが、考えてみれば、たしかにそれは産業革命から始まったのですからあたりまえのことでした。

「この50年で食に起きた変化はその前の1万年より大きい」とは映画 フードインク の中で マイケル=ポーラン が言った言葉です。不必要な食品を「際限なく生み出す」ためのにせの効率化と、そのために引き起こされる貧困、貧困がもたらす過剰カロリーによる肥満と糖尿病の蔓延が、衝撃的に描かれています。

上記の引用部分には「にせの必需品、あるいは人為的な必需品」とありますが、人為という言葉は合体すると偽になると フォーカス・リーディング にありました。人の為すことは、にせものなのでしょうか。

だからこの本の中に登場する21世紀にも残るいくつかの「人為的なもの」は美しくないものの代表のように描かれています。

モリスの遺した様々のものに触れると、とても人の為すことが偽であるとは思えませんが、同時に、ある意味「人の為した部分」はできるだけ目立たない感じに持っていこうとする、強い謙虚さを感じます。自然そのものの美しさや神秘性を大切にしてほしいと切実に訴えているようです。

サポンテはモリスのデザインが大好きなのです。

免責

読書「メモ」とは言え、いつもまとまりなく尻切れとんぼな感じですみません。

農業講座 第二講(段落24〜35)(「農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎」ルドルフ シュタイナー (著), 市村 温司, 新田 義之, 佐々木 和子 (共訳) イザラ書房)

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

免責

このノートは、抽象度が低く、別の言い方をすると、かなり本の内容が詳細に反映されているものになっています。したがって、一部の公開にとどめようと思います。

思いますが、この記事は続きます。すみません。

本の内容

この本は今日の「生態動的農法」あるいはカタカナ語で「バイオダイナミック農法」と呼ばれている農法の始祖「ルドルフ=シュタイナー」による講演録で、「生態動的農法」の書籍の日本語で刊行されているものの中で草分け的な存在になります。

講演は1924年6月7日〜6月16日まで開催されたものです。

ノート

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ノートの作り方

前回の記事に書いたように、小見出しを差し入れています。しかし前のページほどは雑然としておらず、すっきりした感じになっています。わりとうまくできたかもしれません。しかしまだ冗長かもしれませんね。

今回のページにまとめた部分は前回よりはまだ理解するのが容易でした。合っているかどうかは判りませんが...。

下書きノートを見直してみても、やっぱりすっきりしています。この本のノート作りのコツがつかめて来たのでしょうか?いいえ、油断できません。実は第六講のノートはまたガラッと変わっています(はい。第三〜第五講とばして第六講に行きました)。各講の内容によって、作り方をそれぞれ変えた方が良いのかもしれません。

農業について

サポンテは水稲栽培をしていました。兼業で水稲栽培をしていると、勉強は農閑期にやるしかありません。本当は勉強しながら、勉強したことを作業に適用したり、うまくできると良いのですが。実際、バイオダイナミック農法を適用するならば、フルタイムとの兼業では厳しいです。エンジニアの仕事は天体の運行によってスケジュールが決まっているわけではないからです(そりゃそうだ)。

また今日の農業は分業が進み、動物を育てている人はごくごく僅かです。動物が入ってくると、兼業は更に厳しくなります。田んぼは1日放っておいても大して変化はありませんが、動物の世話は一日も休むわけにはいきません(※)。

特にサポンテの場合、一人でやりたい派なので、もうにっちもさっちも行きません。どうしたらいいか、真剣に考えています。

※:鯉除草という農法があって、その名の通り田んぼに鯉を放し、その活動で除草するというものです。これは「日々の世話」という点では省力化できます。しかし導入と「その後」を考えるとまた簡単ではないことが想像できます。鯉は生態系への影響が大きいため、田んぼの外に逃がさないよう細心の注意が必要です。稲の収穫前には必ず鯉を一尾残らず除いておかなければなりません。いずれ「慣れる」かもしれませんが。アイガモ農法は慣れました。「導入」も「後」も、わりと慣れました。だから鯉もいずれ、慣れるのかもしれませんね。ちなみにアイガモは逃がしてしまっても野生では生きていけません。飛べないので一日も経たず獣に襲われます。

農業講座 第二講(段落13〜23)(「農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎」ルドルフ シュタイナー (著), 市村 温司, 新田 義之, 佐々木 和子 (共訳) イザラ書房)

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

挨拶

前回の記事からずいぶん時間が経ってしまいました。毎年この季節、サポンテは野山を忙しく駆け回っているので勉強の時間が取れません。読書だけはしてますけどね。

免責

このノートは、抽象度が低く、別の言い方をすると、かなり本の内容が詳細に反映されているものになっています。したがって、一部の公開にとどめようと思います。

思いますが、この記事は続きます。すみません。

本の内容

この本は今日の「生態動的農法」あるいはカタカナ語で「バイオダイナミック農法」と呼ばれている農法の始祖「ルドルフ=シュタイナー」による講演録で、「生態動的農法」の書籍の日本語で刊行されているものの中で草分け的な存在になります。

講演は1924年6月7日〜6月16日まで開催されたものです。

ノート

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ノートの作り方

このページを作っている途中で、目次の方に各講の内容について小見出しのようなものが記されているのに気づきました。それを水色の文字で書き入れました。前のページではそれが無いのでアンバランスな感じになっています。第二講のノートは次の「段落24〜35」で終わりですが、そこまで同じ作り方をしました。しかし次からはまた異なるノートの作り方にしようと思っています。振り返ってみて、この作り方だと今ひとつパッとしないというか、何かが違う気がします。

まず長くなりすぎるきらいがあります。それに図の所為かもしれませんが色数が多く、紙面が雑然としています。紙媒体である以上は編集力に制限がかかり、なかなか難しいのかもしれませんが、ちょっと反省点が多いノートです。

図を間違えました

左のページの図は、本の中に在るのではなく、自分で理解するために加えたものです。後に六講を読んでいる時にこの図、すなわち自分の理解が間違っていることに気づきました。ですので、この図はいずれ描き直す予定でいます。

ケイ石によって大地から放射される宇宙的諸力は、そのまま根にではなく一度地上側に出てから植物に吸収される、という道を辿るようです。たしかに第二講本文を読み返すとそう読めます。

やはり難解です。

講演録だからなのか

読み始めたとき、講演録という性格上、ある程度、話が脱線したり散漫になったりするのは仕方が無いのだろうか。しかしシュタイナー自身の手(正確には口述ですが)によるバイオダイナミック農法のテキストはこれしかないからなんとか読破しなければ。そう思っていました。

しかし腐っても鯛。講演録でもシュタイナーの著作です。そのような落ち度があるとは考えにくい。これは、敢えてこのような構成になっているはず。

統計学入門を読み終えた後、もう一度全体を俯瞰したとき__これは全部読んだからこそ俯瞰できるようになったのですが__初めに読んだときは見えていなかったものが見えるようになりました。これは全体を読み終えた後でもう一度(あるいは何度も)読み直すことで、またさらに別の意味や示唆を発見できるのでしょう。

この本の中でも、農場だけを観察するのではなく、植物単体や動物の個体だけを観察するのではなく、ましてや肥料成分だけに注目するのではなく、天体の運行も視野に入れた全体を観察することで、初めて実際のところが理解できると、繰り返し、様々なたとえを用いて書かれています。

シュタイナーの他の著作でも、やはり同じようなことが強調されています。詳細にいくら分解したところで全体の中でそれがどのようなものなのかを観察しなければ、本当に観察したことにはならないと。

ただし、わりと解りやすく書かれた統計学入門のような本とは違います。もともとシュタイナーの思想が難解な上に、農業という広範な知識が求められる分野ですから、きっとこの本は永い間飽きること無く向き合える本になりそうです。

図書館にあるのですが。

効率について ... プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社)(3)

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

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前回のつづきです。

プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社) - サポンテ 勉強ノート

パニック

以前のブログアーミッシュの学校が取材禁止になっていることを紹介しました。それは生徒にパニックを引き起こすからだと説明されていました。

サポンテも高校生の時、学校にテレビ局が取材に来ました。そのとき__事前にある程度の打ち合わせがあったにも関わらず__やはり狂躁状態というか、個人としても群衆としても抑制の効かない状態になったことを覚えています。授業中であるのに関わらずカメラマンからは「(テレビ的に絵になるから)このページを開いていて」と指示されました(まあ、まんざらでなかったことは認めますが)。学校の授業と、テレビの話題としてのネタを狩猟採集のように集める取材行為とは相容れるものではありません。

狩猟採集型の取材行為

テレビの話題を取材する際に「狩猟採集」という言葉をつかいましたが、もちろんそれとは反対に、長い時間をかけ対象に寄り添ってていねいに情報を集めていく取材方法もあるでしょう。これを「農耕牧畜」型とは呼びたくありません。なんだか取材した映像なり音声が勝手に育って成長するようなイメージがします。言い得るなら「遺跡発掘」型となるでしょうか?長い時間をかけ、あるかないかもわからないものを壊さないように慎重に掘り起こしていく。そんな取材の方法です。

このような取材があまり主流ではない背景には「効率的ではないから」という理由があるでしょう。

効率

アーミッシュにとって「効率が良いこと」はむしろ悪徳とされることが、この本には書かれていました。これが結構、目からうろこが落ちるようなことでした。

効率が良い。つまり少人数や短時間でものごとを解決する「道具」「手法」「技術」などは、すべてコミュニティを崩壊させるものと考えているようです。これは「古いものはいいものだ」という懐古趣味であるように誤解されたり、「文明の進歩を悪だと決めつける」頑迷で保守的な排他主義のように誤解されたりするでしょう。しかしそうではなく、徹底的に考え抜いて、自分たちの文化への影響を検証して決めているようです。

アーミッシュでは家族あるいはご近所の人たちなど、できるだけ多くの人たちと 長い時間協働すること に何よりも価値を重くおいており、したがって少人数で効率よく仕事を済ませてしまうことができるものを排しているのです。

具体的には「新しい」農業機械。アーミッシュもけっして文明を全否定しているわけではなく、機械を使う場合もあります。しかしそれは概して古いもので、家族が協力し合ってはじめて機能するようなものだとのことです。

また電話は、家族と過ごしている時間に否応なく割り込んでくるものとして。テレビは会話を遮り、家族との時間を奪うものとして。全館暖房は家族をそれぞれ個室に誘うものとして。

いずれも一貫しているのは、ともに過ごしている人との時間に重きをおいているという点です。現代文明が個人的なものを尊んでいるのとは、まるで対照的です。

個人的であること

サポンテは極端な内向型人間であることと他の理由 1 もあって、一人で生きていきたいと考えています。この現代社会で一人で生きていくためにどうすればいいか、日頃から真剣に考えています。

そんなサポンテにとってアーミッシュの考え方は、理解はできても実践したいものではありません。これは変わることはないでしょう。

しかしそれは現代文明の刷り込みが入っているからなのではないかと問われれば、その通りだと思います。

現代文明は個人的なもの、個性的なものをとても大切にします。その方がモノが売れるからです。家族に一台のテレビより、個人に一台。身も蓋もありませんが、そういうことでしょう。全部がそうだと言うつもりはありませんが、産業界の要請には完璧に合致しています。

その反動か昨今はチームワークを軸としたバズワードが世界中で話題にあがります。しかしながらサポンテの目には「チーム一丸でもっと生産を(つまりは消費を)」と言っているように見えてしまうのです。


  1. 極端な内向型人間であることは既に確認しています。「他の理由」としたものは「その疑いが強い」程度でまだそこまではっきり確認できていませんので伏せておきます。

農業講座 第二講(段落1〜12)(「農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎」ルドルフ シュタイナー (著), 市村 温司, 新田 義之, 佐々木 和子 (共訳) イザラ書房)

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

免責

このノートは抽象度が低く、別の言い方をすると、かなり本の内容が詳細に反映されているものになっています。したがって、一部の公開にとどめようと思います。

本の内容

この本は今日の「生態動的農法」あるいはカタカナ語で「バイオダイナミック農法」と呼ばれている有機農法の始祖「ルドルフ=シュタイナー」による講演録で、「生態動的農法」の書籍の草分け的な存在になります。

講演は1924年6月7日〜6月16日まで開催されたものです。

まだ第二講までしか読んでおらず、その第二講も途中までしかノートを作っていませんが、ここまでの(自分なりに理解した)内容をかなりかいつまんで紹介すると以下のようになります。

  • 植物は自分では動けないので、動物や人間と比べて、天体運行の影響に依存する部分がより多い。
  • 植物の生長に関しては、植物単体を観察するだけでなく、農場全体を一つの生命に見立てて、その中での位置づけや天体運行状態から総合的な視点で観察する必要がある。
  • 天体から植物への働きかけをより多く捉えて利用するために、今日あまり重要視されていない物質が寄与している。

講演録という性質上、図版は多くありません。しかし講演中にシュタイナーが板書したものが写真と複製で残っています。

この本との向き合い方

私は農業を本業としているわけではないので、この書籍は手元にあるわけではなく図書館で借りたものです。時々借りて、少しずつ読み進めています。

借りても二週間の返却期限では、なかなか読み進めることができず、諦めて返し、また気が向いては借りるということを繰り返していました。もう割り切って「全部は読まない」とし「二週間で一講ずつノートを作っていこう」としました。すると意外に楽になったばかりか、内容もよく理解できるような気がします。1

海外の Wikipedia でバイオダイナミック農法を見てみると押しなべて「難解」と書かれています。たしかにシュタイナーの本はいずれも、一読しただけでは理解が難しい。2 あえてそのように作ってあるそうです。文字と格闘し、文章と格闘し、段落と格闘し、必要に応じては他の書籍を参照したりして吟味し、その意味を推敲する。そのようにして頭の中で、まるで料理をするように言葉を刻んだり煮込んだりして自分のものにしていく思考作業に大きな価値があるとシュタイナーは考えているようです。

シュタイナーの他の著作を取り上げた勉強会でも、そのように歩を進めていくスタイルをとっていました。これはもう農耕型読書でもありません。収穫しては料理や醸造を行い、それを味わい飲みこみ消化してからまた次の段落にとりかかる。そんなイメージです。

サポンテは勉強中 PC をなるべく使わないようにしたいと思っている__本業エンジニアなので、なるべく画面から離れた時間を取りたいためです__のですが、今回は下書きに一部使ってしまいました。時間がかかりすぎると感じたためです。しかし PC による編集効率の良さが仇になることもあるということは、今回改めて感じました。紙には紙のよさがあるという以上に、上記の「消化」過程に、なんと言うか「よく噛まずに飲み込む拙速さ」のようなものを感じました。

バイオダイナミック農法は誤解を持って語られることが多いですが、それは、多くの場合にこうした「消化」過程を厭う人が多いからなのではないでしょうか。異なる文化、概念に触れる場合は、異なる「消化」過程を経る必要があり、そうでなければ見えてこない側面が必ずあると考えます。3

ノートの作り方

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段落ごとに、概要、まとめ、得られた知見、図版の複製を記してあります。

しばらくそうやってノートを作りながら文章と格闘していると、いくつかの段落で内容が一続きになっている単位があることに気づきました。当然といえば当然なのですが、ノートを作っているとよくあることでもあります。このため後半は複数の段落で同様のまとめを行っています。

図版は少ないので、必要と思われるものは自分で描き起こして追加していきます。また掲載されている図版を写す場合でも、さらに加筆をして写しています。

反省点

かなり抽象度が低く、自分としてはもう少し踏み込んでまとめたいです。とくに最初の方では、内容にある程度のまとまりがある複数の段落ごとではなく、実際の段落ごとに概要を記しただけで、見出しも付いていません。ノートは、本の全体を俯瞰するためのような使い方もするため、記述量が多すぎるとその妨げになります。本の内容をほとんどそのまま書くとしたら、それは本を買えばよいだけの話になってしまいます。

さすがに一つの講の内容はけっこうな分量になるので見開き2ページにというわけにはいきませんでした。それでも見開き4ページくらいには収めたいところ。

本文には小見出しが無いので単に段落番号だけを記していますが、目次を見ると小見出しに使えそうなキーワードが並んでいました。もっと早く気づくべきでした。

ひょっとしたらもう一度ノートを清書するかもしれません。もう途中からはそのつもりで書いているフシもあります。しかしながら、文章から得られた洞察から思いついたことも併記していきたい野心の芽生えもあり、清書のしなおしは抽象化・圧縮というよりむしろ膨らんでしまいそうな気もしています。


  1. しかし結局二週間でも第二講全部を終えることはできませんでした。やはり「難解」なのは否定できません。

  2. 難解な本や古典には珍しくないですが、 シュタイナーの『農業講座』を読む という、本を読むことが本になるという事態になっています。しかし実際として、シュタイナーはこの講座の翌年にはもう亡くなってしまったので、遺された文献から紐解いていくしかありません。

  3. サポンテの大好きな本の「アイヌ語の贈り物」で、次のように書かれています「実際、人類学や動物学の分野で、これまで予断と偏見に満ちていた異民族の文化研究や動物行動の研究が、対象への共感と共鳴によって新しい見方や世界が発見され、従来のものの見方がくつがえされることがしばしばあります」。

自由について ... プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社) (2)

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

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前回のつづきです。

プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社) - サポンテ 勉強ノート

discpline

 日本では子供の個性を尊重し、自由に育てるべきだとされている、と私は言う。 「それは私たちのやり方ではないわ」とジェシカはこちらに気を遣いながらもきっぱりと答えた。「ごらんなさい、それで世の中がどうなっているか。子供にはしつけが必要なの」  しつけ、と訳したが、彼女が実際に使ったのは discipline という言葉だ。これには”訓練、規律、懲戒”という意味も含まれる。アーミッシュにとって「しつけ」とは、親の勝手な意志に子供を従わせるということではない。従うことは信仰と生活の一部でもある。親に従い、共同体に従い、そして最終的には神に従うこと。

他の箇所ではアーミッシュの子どもが、子どもと言えど4歳にもなれば少しずつ家族の労働力の一端として仕事を任されることが紹介されます。洗礼を受ける期限の22歳までに、アーミッシュとして独り立ちするのに十分な仕事ができるようになるとのことです。これらのことも discipline に含まれるのでしょう。

実際のところ「自由に育てる」といいながら、この社会ではただ子どもを「放置」しているに過ぎないのではないでしょうか。 マニュアル人間とアンチマニュアル人間 のところで書いたことに似ていますが、規則や予定にがんじがらめになって個性が抑圧されるのは良くないとして、ただそれを取り去るだけでは別の問題を招いてしまう。代わりの「子どもの成長に必要」なものを与えることを何もしていない__それが必要であることにも気づいていない__のではないでしょうか。子どもの身体の成長にとって食べ物が必要なように、脳の成長にとって学問が必要なように、自由さを手に入れるためには discipline が必要なのではないでしょうか。

自由を手に入れるために規律が必要というのは矛盾に聞こえるでしょうか?では皆さんにとって「自由」とは、どのような状態のことを指すでしょうか。何ものにも縛られず、気ままな状態のことでしょうか。

自由とは無束縛に過ぎないものではない

私にとって自由の定義は「自分で設けた、あるいは自分で選んだ、または自分に課した規律に従い徹することを通して、降り掛かる困難に立ち向かい、自分の人生を、自分の望むように統制する能力を身につけること、およびその状態」です。1

例えば「医者になりたい」と思った人間が、そのため長期にわたる計画に基づいて勉学に励むこと。

例えば「政治家になりたい」と思った人間が、そのために多くを学び、長い時間をかけて人脈をつくり、その生涯を通じて粘り強い活動を続けていくこと。

これらのことは「何ものにも縛られず、気ままに」日々を過ごしているだけでは、決してなし得ません。目的地にたどり着くためには、どうしたらその場所にたどり着けるかを知ること、どうしたらその場所にたどり着ける力を付けられるかを知ること、そして絶対に必要なのは、たどり着くために歩き続けるという ルール自分で自分に対して 課し、それを 守ること です。

何をしたら良いかわからない

しかし自分に課すルールは、どんなものを選べば良いでしょう。それはどうやって見つけたら良いでしょうか。違う言い方をするならば、子どもはそれをどうやって誰から学べば良いでしょう。

成熟した社会では、若年層の無気力が問題になってきます。それは規律に縛られなくとも、強い指針がなくとも、とりあえず生きていけるという安心感の裏返しです。

生きるためには個性よりも恊働体の結束が大切だという認識が薄れてくると、規律や規範は、時代にそぐわない古くさいものに思えてきます。そんな古くさいものに拘っているのは最早、呪縛に過ぎないとさえ感じる人も出てきます。

そこからの「脱却」「解放」を求める声が多く、大きくなります。その結果、解放されたものの依るべきものを持たない漂うばかりの個人や小規模なコミュニティが乱立するような状態になります。

ついには依るべきものがないという無意識の不安と、それを渇望する潜在意識と、確固たるものを見つけられなかった自由さへの反動として、ナショナリズムへの傾倒を生み出す。それを繰り返し今日に至っています。この傾向は十九世紀末ほどからずっと続いています。

アーミッシュの人たちは頑なではあっても確かな指針を親から子へ伝え、社会を持続可能な形で存続させている実績を持っています。たとえ私たちの理想とは異なっていても、この漂い、彷徨う社会に生きる私たちは敬礼して教えを請うべきものがあるのではないでしょうか。


  1. 自分でこしらえたこの定義に従えばサポンテはまだまだ全然ダメです。もう奴隷です。怠惰と怯懦と欲望の奴隷です。

追加した SQL アンチパターン「背の順」の説明

SQLアンチパターン

SQLアンチパターン

はじめに

前回の投稿 で詳しく書くつもりだったのが失念していました。

目的

SELECT 文を使って出力するリストの順番を、ユーザーが自由に制御できるように「表示順序」のようなカラムを持たせる場合があります。

完全に制御したい場合、ユニークキーを付けたいところですがジレンマがあります。例えば 1, 2, 3 と連続しているレコードの 1 と 2 を入れ替えたい場合、どちらのレコードを先に直すにしても(ユニークキーがついていますから)1 を 2 にすることも 2 を 1 にすることもできません。一旦「4」などの別の数字を入れなければならないのです。その時 4 が空き番になっているかどうかについても先に調べておく必要があります。これはいささか不便です。

それに本当は 4 にしたいわけではありませんから、嘘の数字を登録することになります。たとえ一時的にもシステム内に「嘘」が登録されるということを開発者は好みません。

またその嘘の数字を入力した状態で突然緊急の電話がかかってきて、担当者がその数字を本来の正しいものに直すことを失念してしまったら大変です。開発者はこうした状況も想定し「フール プルーフ」としてもシステムに嘘が登録される危険性を排除しておくべきなのです。

そこで、わざとユニークキーを付けないでリリースします。これなら上記のようなジレンマを解消できます。

アンチパターン

そして開発者は表示するリストのソートに、この「表示順序」カラムを利用します。

しかしユーザーは開発者が思いもしない使い方をするものです。なんと「表示順序」にすべて同じ数字を入れてしまったのです。

「全部同じ数字を入れたら名前の順番に並ぶんでしょ?」1

そんな仕様はありませんが、リストの並びも、順序を前提とした集計結果が間違っていることも、一見してわかります。

背の順

「背の順に並んで!」小学校の時、先生にそんな風に言われなかったでしょうか?これnなら背の高い人が邪魔になって前が見えないということがないので理にかなっています。校長先生の顔を見たいかどうかはシステム的には感知しません。

このとき同じ程度の背丈の友達と顔を見合わせ途方に暮れた経験はありませんか?(その程度のことで「途方に暮れる」というのは誇張がすぎるでしょうが)そのようなイメージで命名しました。

ユニークではない項目だけを使ってソートした結果は一定ではありません。そのようなクエリを書いたり、その結果が期待通りであることを想定したロジックを作ってはいけません。

アンチパターンが有効な場合

希に、システムルールよりも厳格はビジネスルールで窮屈な運用している企業があります。そういうところでは問題は顕在化しないかもしれません。

しかし上記の「緊急事態」の件も含め、想定しない利用をするユーザーはいるものです。このアンチパターンを正当化する理由はありません。

たとえユーザーが「表示する順序を明示的に決定する項目を設けて、その順序に従ってリストしてほしい」と言ったとしても、それがユニークでないのなら、開発者には「その次の優先キーを何にするか」提案し、同じ表示順序が登録されてしまった場合の「フール プルーフ」を実装する責任があります。

解決策

ユニークであるカラムを ORDER 句に含めればいいだけですので、この問題を解決する上での工数も少なく、躊躇する必要はないでしょう。


  1. 実話です。