はじめに
髪を切る際の待合席で読んだ週刊誌に「『PC を再起動させる』(中略)といった間違った日本語が...」という記述がありました。それについて書きたいと思います。
記事の内容は PC に関連する記事でもなければ日本語の乱れについて書かれたものでもありません。すでに記憶がまったく定かではありませんが、上記の部分だけが心に残っています。
何が間違っているか
さてこの週刊誌記事には「なぜそれが間違いなのか」が書かれていませんでした。記事の主旨ではないので省略されたのでしょう。なので間違いだとする理由については推測するしかありません。
私の推測は、記事を書いた人は「『PC を再起動する』が正しい」と言いたいのではないか、というものです。「させる」というとき、まるでそこに「第三者」が必要であるかのように感じる。PC の再起動が必要なのは自分であり、その操作をするのも自分であり、他人に「させる」わけではない、ということなのでしょう。
この推測がもし勘違いであった場合、本投稿は出発点から間違えていることになるので、全体がもう意味のないものである可能性もあります。その可能性を念頭に置きつつ読んでいただければと思います。
完全に推測ですが、他に考えられないので外れてはいないのではないかと思っています。もし外れていたらこっそり教えてください。
さて、私はエンジニアのはしくれでもありますので、コンピューターサイエンスの分野について、一般の人たちに比べれば多少なりと明るいとの自負があります。そのような立場にあることも念頭に読み進めていただければと思います。
「する」というとき
断言できますが、いまどき自分で PC の再起動をする人間はいません。必ず OS に内蔵されている「再起動処理」に任せます。すなわち再起動という仕事を PC に「させる」のです。人間が「する」のは再起動せよという命令を与えることだけです。
今日の PC はとても複雑で、起動(boot)も終了(shutdown)も多くの工程を経ます。再起動はこの複雑な二つの処理をくっつけたものです。数百どころではない工程を経ているはずです。
「はずです」というのはエンジニアにあるまじきあいまいな表現で申し訳ありませんが、実際のところ、詳しいことはよくわかりません。
エンジニアの私ですらよくわからない複雑な工程を、PC に任せず、一般の人が自分で実行「する」ことは考えられません。
「PC を再起動する」というとき、私にはこのありえないほど複雑な工程をひとつひとつ手動で実施「する」イメージを持ちます。
「する」から「させる」へ
かつて古い時代にはそうしていた時期もあったでしょう。コンピューターが複雑化するにしたがい、起動も終了もそれを組み合わせた再起動も、スクリプト(プログラム)を準備し、徐々に PC 自体に「させる」ようになってきました(そして現代ではそれがあたりまえになっています)。
かつては詳しい人たちだけのものであったコンピューターが、PC として一般の人たちへ普及していくと同時に、コンピューターに詳しい人々の感覚から出た「させる」という言葉も、そのまま一般の人たちに浸透していったと考えられます。
「させる」から「する」へ
しかしながら PC は__どちらかと言うと「OS は」ですが__進化の必然として裏側の複雑さを隠蔽して、どんどんユーザーフレンドリーな単純さを身につけてきました。そのような視点では、もはや PC が裏側で仕事をしていることに思い巡らすこともなく、自分で再起動している感覚になっても不思議ではありません。
再起動は再び「する」ものになりました。それはユーザーフレンドリーを獲得した開発者の勝利でもあるかもしれません。
語源
「『させる』は間違い」と言っている人は、このような経緯を知らないのではないかと感じてしまいます。
なぜなら言葉には源があり、それは安易に否定できないからです。「語源的に正しくても現代では間違っている」という考え方であるとしても、それは、まがりなりにも日本語の乱れを指摘する人にしては、かなり乱暴な考え方であると感じるためです。
省略表現
以上のような経緯から「PC を再起動させる」は、正確に言うなら「PC に再起動コマンドを入力し、再起動スクリプトを起動。PC 自体に再起動処理をさせる」ということになります。
言葉には「省略してそうなった」ものがたくさんあります。「自動販売機」が「自販機」になったのは、意味の損失もない好例です。「PC を再起動させる」は、同じように上記の文章の省略表現が定着したものであると考えることもできます1。
「『させる』は間違い」と言っている人は、この可能性も考慮に入れていないと感じます。言葉の正誤が何に発するものなのかを見極めることなく、できあがった言葉だけを見て日本語の間違いとするのは、やはり乱暴ではないか。あるいは思慮に欠けているのではないかと思うのです。日本語の乱れを気にする人にしては、です。
擬人化の可能性
「コンピューターに仕事をさせる」と表現することを、無機物の擬人化として忌避する考えもあるかもしれません。しかしこの場合、それは当たらないと考えています。
「車を走らせて海へ行った」という表現があります。「車で走って海へ行った」とは言いません。車の動力として自身の脚力を使っているかのような雰囲気です。
であれば「PC を再起動させて仕事にかかった」という言い方もできるはずです。「PC を再起動して仕事にかかった」というと、なんだか再起動も仕事に含まれるような、PC の所為でひとつ仕事が増えてしまったような、そんな哀愁を感じます。上述の通り、再起動はコンピューターに自動的にやらせておくべき仕事なので、人間様の仕事の一つに含めたくありません。
『させる』は間違いというなら
「『させる』は間違い」と言うなら、少なくとも上述のような考察の後に「語源的には正しい。省略表現でもある。しかしながら...」とした上で論を展開していただければと思います。
「させる」の擁護
ここまで読んでいただいてお分かりかと思いますが、私は「させる」派です。
第一に、コンピューターは人間の仕事を肩代わりするするために存在する道具であるという認識があるためです。コンピューターに対し人間が「する」ことは仕事をせよとの命令(コマンド)であり、実際の仕事(プロセス)はコンピューターに「させる」ものであると強く考えるためです。「再起動する」という時、前述のようにコンピューターによって人間の仕事が増えたニュアンスを持ちます。それは人間の仕事を肩代わりするものという認識とは相容れないものです。またエンジニアとして、再起動が複雑な工程から成っていることを知っていれば、それは「する」ものではなく、コンピューターに「させる」ものでしかないことも自明なのです。
第二に語源原理主義者であるためです。たぶん。
第三に、エンジニアとして、コンピューターが裏側でしている複雑な仕事を常に念頭に置き敬意を払いたいという心理があります。これはエンジニアとしてというより、ギークとしてのコンピューターに対する愛情かもしれませんね。
実際に使うとき
「させる」派の私ですが、では実際に使っているのはどちらかというと...どちらでしょうね。あまり使わない言葉なので思いつきません。
時代に合わせるべき?文脈によって変える?話しかける相手によって使い分ける?タイプ数が少ないほうがラク?
今後、使うときは意識してみようと思います。
おわりに
はじめに書いたとおり、推測から出発していますので全て勘違いの可能性があります。
本投稿をする前にネットで検索をしましたが週刊誌と同じ「させるは間違い」という意見を見つけることはできませんでした2。
みなさんは「する」派でしょうか「させる」派でしょうか。
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配膳係の「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」という表現について「過去形であるのはおかしい」という指摘がありますが、この配膳係の文言も省略表現である可能性があります。次のような別の文言が省略されている可能性です。「復唱した(つまり過去形)内容で」「持ってきた料理は、先刻承った(つまり過去形)内容で」。そう考えると「よろしかった」は、あながち間違いではないと思えます。省略の結果、とんでもない間違い表現に陥った悪例として「汚名挽回」がありますが、それに比べると「よろしかった」や「ほとんど美しい」のように省略の結果に由来するという視点が欠落したまま論議の対象となっているものがしばしば見受けられます。↩
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本文のとおり、週刊誌には「なぜ間違いか」が書かれていませんでしたが、そうであるならそれは一般に広く認識されているものという前提が不可欠です。「よろしかったでしょうか」の例のようにです。しかしながら検索しても見つけられないということは、広く認識されているとはとても言えません。単純にこの点だけをとっても、週刊誌記事を書いた人の方が間違っている__少なくとも多数派ではない__と言うことができるでしょう。↩