はじめに
この時代のドイツについて興味があり、図書館でこの新書に出会ったので借りて読んでみました。
イメージが一人歩きして行った先から、ヒトラー演説を一度連れ戻してみないといけない。
著者は冒頭の「プロローグ」に書いています。その理由として...
イメージは往々にして一人歩きする。ヒトラー(Adolf Hitler)の演説の場合も例外ではない。ヒトラーの演説といえば、声を大きく張り上げるヒステリックな姿が思い浮かぶ。ヒトラーはたしかに、クライマックスシーンでは大きなジェスチャーでがなり立てるように語り、話すスピードも速い。(中略)テレビなどで、このようなシーンが繰り返し流されているのだろう。しかし実際には、演説中のヒトラーがいつもそうであるわけでないし、またそれだけがヒトラーの演説の特徴でもない。
...とあります。
実際、わたしたちはそのようなイメージを持っています。そればかりか、ヒトラーといえば反ユダヤ主義や優生思想の大きな代名詞であり、そのイメージだけで捉えられることも多いと感じます。それは十分すぎるほど大きな罪であることはたしかなのですが、ヒトラーの犯した罪はそれだけはありませんから、多方面から省みることは重要でしょう。
この本では、ヒトラーの行った演説に焦点を当て、ヒトラーが語った言葉自体、そのレトリック、組み合わせて使ったジェスチャー、語った場所と伝達方法、時代背景と演説を行ったタイミングなどなど、様々の観点から分析をしています。
人々を熱狂させた演説
ヒトラーの演説といえば、ヒトラー自身だけではなく、その聴衆の熱狂も併せて、人々のイメージに浮かぶのではないでしょうか。こちらについても、私たちが思っているほどではなかったようです。
ヒトラーは言葉選び、レトリック、発声術、ジェスチャーなどについて熱心に学び、精力的に弁舌の技術を磨きました。聴衆の反応もよく観察していて、演説全体を演出し、人々の熱狂を誘いました。そして実際たいへんな関心を持ってヒトラーの演説が受け入れられていた時期もたしかにあったようです。
しかし、この本を読むと、そうではない時期も長かったことがわかります。
熱狂的に受け入れられている時期に撮影された映像だった。聴衆に狂信的な人々ばかりを選んで集めた演説会場だった。演説の盛り上がったところを拾い上げて編集した。私たちの持つイメージは、そのようなものの積み重ねから、徐々に作り上げられてきたものと言えるかもしれません。
飽きられる演説
ナチは政権掌握後にヒトラーの演説放送を聞くことを義務化しました。本には「受け手に伝播させるメディアがあっても、受け手側に聞きたいという強い気持ちがなければ、その潜在力は顕在化しえず、受け手を熱くできなかった。政権掌握後にラジオを通じて強制的に聞かされた「総統演説」は、本来持っていたはずの波及力を失い、魅力を急激に落とし」たとあります。
当時、発達の途上にあった拡声装置やラジオは、ヒトラーがそのプロパガンダを浸透させる目的もあって急激に普及が進みました。しかしそれだからこそ、人々がヒトラーを急激に飽きる原因にもなったということです。
皮肉といえば皮肉ですが、ヒトラーの政治が民衆に対して期待ほどの実益をもたらさなかったというのが、結局は人々の「飽き」をもたらしたのではないかと思います。
ヒトラーの巧みな弁舌力が、そしてそれを伝えるメディアが聴衆にもたらしたのは「パン」そのものではなく、いわば実体のないまま膨らませられた「パンの夢」であった。ヒトラーから与えられたものに実体がないと受け手が明確に気づいた後は、ヒトラーの演説は機能停止するほかなかった。
そしてヒトラー自身、聴衆を熱狂させることができないと気づいてからは、演説する気もなくしていったようです。
いまだにヒトラーの周りを回っている
このようなヒトラー演説の真実が、われわれの持っているヒトラー演説のイメージと矛盾するとすれば、それはヒトラーをカリスマとして描くナチスドイツのプロパガンダに、八〇年以上も経った今なおわれわれが惑わされている証であろう。
この本のエピローグには、そう書かれています。
ヒトラーのような政治家が二度と現れないよう人々は警戒していますが、その印象があやまって人々に伝播し浸透しているとすれば、私たちは目を開いてほんとうのことを知らなければいけないのではないでしょうか。
そうでなければ「ヒトラーのような政治家」が二度と現れないようにしたとしても「ヒトラーのような政治家に踊らされる人々」が二度と現れることはないとは言い切れない。この本は、そう言っていると感じます。