本を読むことについては、いろいろな視点があると思いますが、その中からいくつか思ったことを書きます。長くなったので記事は分割します。今日は前半です。
きれいに読む
読書術の本などを読むと、その中に「本を汚く読むべき」ということを書いてあるものがいくつかありました。「汚く読む」とは、本を読みながら気になった分に傍線を引いたり、気になったページに折り目をつけたりして「汚しながら」読む読み方です。その方が、後で参照したりするときに便利ですし、内容が頭に入りやすいとのことです。
サポンテは本を奇麗に読みます。「奇麗に」とは、「汚く」の反対になるべく本を傷つけないように読む読み方です。貧乏性なのかもしれませんが、つい再利用のときのことを考えてしまうのです。サポンテは古本屋をよく利用しますが、何度か傍線を引いた本に当たってしまって(しかも特に安くはなっていませんでした)残念な思いをしたことがあります。
汚く読むのはべつに構いませんが、それを市場に戻すことは差し控えていただきたい。傍線が引いてあると、どうしてもその部分が強調されてしまい、著者の意図だけでなく「まったく他人の意図」というものに意識が引き摺られてしまいます。それは、その他人にとって重要かもしれないけれど自分に取っては重要でないところかもしれず、自分にとって重要な一文に出会える機会に少なからぬ影響を与えてしまうことを意味します。
汚く読むことを否定はしませんが、そうしたらその本は生涯手元に置くか捨てていただきたいと思います。そういうことで、サポンテは基本的に奇麗に読みます。例外的というか、次のような本は書き込みをしたり、切って読んだりすることもあります。
- 生涯手元に置くことが間違いない本
- 寿命が短い本。たとえば雑誌とか、技術本(衰勢が激しいため)
- 通勤中や出先でも読みたいけれど嵩張る本
- 勉強会に使うため書き込みが必要な本
技術本は栄枯衰勢が激しく、技術的に時代遅れになると古本に出しても価値がないことも多い。価値ある技術は時代に合わせた新版が出るので旧版は用を為さなくなる場合があるためです。
こうした例外を除いて、本はなるべく大切に読みます。それは自分以外の誰か次の読み手に__それは親しい人かもしれないし、そうでないかもしれないけれど__バトンを受け取った人がその人なりに本を読んで体験することを大切にしてほしいと思うためです。
本を読む理由
本を読む理由については多くの人が多くのことを語っています。それは人によっては一つしかなかったり自明のことだったりするのかもしれません。
「楽しむために決まっているじゃないか」「新しい知識を得るためさ」など。しかしいざこの問い__「何のために本を読むのか」「ほんとうにその理由だけか」__に向き合ってみると様々な理由を思い浮かび、実はすっきりと答えることが意外に難しいと気づかされます。
そうしてしばしば人はこの問いから逃れるために「そういえば何のために本を読んでいるのだろう。楽しむだけに読んでいるのであれば時間とお金のムダだ。何かを読んで楽しみたいのならスマホで何かSNSに流れてくるものを読めば良いし、新しい知識を得たいのであればネットニュースで十分だろう。本を買って読むなど時間とお金のある人のする贅沢ごとだ」などと考えてしまうのです。
しかしながらネットニュースで得られる情報と読書によって得られる情報では「1対100」くらいの濃度の差を感じます1。ネットニュースやブログで得られる情報は意外と少ない2。また、そうした媒体は多くの人に読んでもらうために、あえて難しい言葉や漢字を使わないように書いているため語彙が少ない。そうしたものだけに触れているような環境になってしまったら、読み手の知識も語彙も少なくなってしまいます。サポンテも実はそのように意識的にブログを書いているので何をか言わんやなのですが3。
また恐らくは感情の種類も減ってしまうのではないかと思います。感情の語彙と言っても良いかもしれない。感情の種類をあらわす言葉に「喜怒哀楽」というものがあります。これが「四大感情」とでも言うべき感情かもしれませんが、こうした「N大○○」というものがあると、どうしてもそれ以外のものが無視されがちになります。人間が必要とする六大栄養素が明らかになり、ビタミンが発見されるまでそれが軽視されてきたように(更に言うならビタミンの発見後、長らくポリフェノールが無視されてきたように)。肥料の三大成分、窒素-リン酸-カリウムが発見されると、明らかにそれ以外を無視した化学肥料が土壌を疲弊させたように。
人間は喜怒哀楽以外にも複雑な感情を持つことがあります。それを読書を通じて擬似的にでも体験することは、大きな意味を持ちます。『イオマンテ』に登場する男の子の感じたような葛藤を、いったい現代人は日常生活の中で体験することが出来るでしょうか。『不滅のあなたへ』に出てくる「俺はどうして俺なんだろう」と言ったときの感情を、本に依らずにどれだけの人が体験できるでしょうか。そして、こうした感情を体験した後でも「それは自分には必要ないものだった」と言い切ることが出来るでしょうか。質問を替えるのならば、本を読む前の自分に戻りたいと思うでしょうか。
- 作者:寮 美千子
- 出版社/メーカー: ロクリン社
- 発売日: 2018/02/08
- メディア: 大型本
ときにそれらは「なんとも言えない感情」とあらわされることがありますが、それを「なんとか明確に言い表してくれる」のも本__あるいはまた違った形の芸術だったり__です。
人間の持ちうる感情の多くは、古典の中にすでに描かれていると言われています。その他、現代の文学や芸術には現代にしかない独特の雰囲気や感情というものが描かれています。それらは日常生活の中で得難い感情を__あるいは心の栄養と言い換えても良いかもしれません__補いバランスをもたらしてくれる役目を持っていると思うのです。
そのために本を読むというのは、けっして「楽しみのため」だとか「知識を得るため」というものではなく、もう少し別の必要に迫られているのではないかと感じます。
本を読むと、頭がよくなるとか、話題が豊富になるとか、そんな言われ方もされます。
でも、読書とは、余裕のある人がするようなものではなく、もっと切実な栄養補給だと思います。
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人によっては、読書により得られるものよりもセミナーなどに参加して人から話を聞いた方が更に良いという人もいます。サポンテは内向型人間なので、多くの人が集まるセミナーなどはとても苦手意識があり「本で読んだ方が良い」と感じてしまうのですが、そうでない人にとっては「知識だけを頭に入れる読書ではなく、セミナーに参加してもっと能動的に身につけたい」という方法はとても良いかもしれませんね。↩
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ネットでしか手に入らない情報ももちろんありますので、全てを否定するものではありません。↩
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意識的に漢字を減らしたり、言い回しを易しくしたりすることがあります。ブログテクニックの一つです。かといってそればかりでは中身が薄くなったり、ひらがなばかり続いて反って読みにくくなったりすることがあり、それは自分としては嫌なので、まあバランスですね。だから同じ文章の中で「出来る」と「できる」をどちらも使うなどということがあります。↩