サポンテ 勉強ノート

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一人で死ねの対義語は「いっしょに生きよう」

はじめに

ソースを。

「じゃぁ他人を犠牲にするなっていうことは一人で死ねっていうことじゃないですか?そこをごまかしちゃダメですよ。社会はそういう規範意識を醸成して、自分の命を絶つときは絶対に人に迷惑をかけるなっていうことを社会がそういう風にしていかないと、きれいごとばかり言ってもダメですよ」

橋下徹氏、京アニ放火事件で青葉容疑者へ「一人で死んで欲しい。他人を犠牲にしていいのか?社会でこういうことは言い続けるべき」 : スポーツ報知

一人の頭のおかしい人が出てきて。死にたいなら一人で死んでくれよって、そういう人は。

立川志らく「死にたいなら一人で死んでくれ。何で弱い子供のところに…」川崎市で十数人刺される : スポーツ報知

挙げたソースの二件は結局「拡大自殺」ではなさそうで、発言の根拠となる事件の引用がそもそも的外れという批判も可能ですが、それはおいといて。

一人で死ねの対義語

「一人で死ね」の対義語は「他人を犠牲にしてもいい」ではありません。「いっしょに生きよう」です。そこをごまかしちゃだめです。社会はそういう規範意識をこそ醸成していくべきです。自分の命を絶たせる前に、汚くても困難でもみっともなくてもいっしょに生きようと、社会がそういう風にしていかないと、「他人を犠牲にしない」なんてきれいごとばかり言ってもダメですよ。

「一人で死ね」が批判される理由

「一人で死ね」ということがなぜ批判されるかというと、ひと言で言うと拡大自殺を逆に増長させるから」です。

拡大自殺をする人というか自殺をする人は往々にして孤独なものです。生きているうちに孤独で、死ぬときも「一人で死ね」と言われたら、もうむしろ「他人を巻き込んで死んでやらないと気が済まない」くらいに追いつめられます。逆効果なのです

だからこそ「いっしょに生きよう」という意識を社会が醸成する必要があります。たとえかけ声だけだとしても、「一人で死ね」と「いっしょに生きよう」のどちらがマシか、考えるまでもありませんよね。

命の道

「一人で死ね」というのは簡単です。「他人を巻き込むな」というのも簡単です。潔くて日本人の美学に沿っている、むしろ、それこそきれいごとで済ませようという浅はかさが見えます。しかしそれは何も生まないし、生きない。死の道をつくってしまう意味の無い言葉です。

社会が声を上げるべきは「いっしょに生きよう」ではないでしょうか。では「頭のおかしい人」とやらと、お前はいっしょに生きることができるのか?と問われれば、たしかに難しいかもしれない。現代の日本人の多くに、障がい者とともに歩むコンセンサスができているか?と問われれば、それもまた厳しい状況と言わざるを得ないでしょう。しかしそれは命の道。多くを生かす、意味のある道。泥臭くて汚れを伴い困難な、お互いに傷つけあうことになるかもしれない。しかしほんとうに選ぶべき希望の道ではないでしょうか。

社会が言うべきこと

橋下さんも立川さんも「拡大自殺」をするような人たちといっしょに生きている暇はないでしょう。きっと努力して今の立ち場にいる方々で、そんなヒマはないと言うかもしれません。お二人だけでなく、日本人の多くは同じ気持ちなのかもしれません。でも生きている方がよくないですか?面倒で困難でも、生きている方がよくないですか?

一人で死ねと言う社会と、いっしょに生きようと言ってくれる社会と、どちらにあなたは住みたいですか。