サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

農業講座 第二講(段落1〜12)(「農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎」ルドルフ シュタイナー (著), 市村 温司, 新田 義之, 佐々木 和子 (共訳) イザラ書房)

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

農業講座―農業を豊かにするための精神科学的な基礎

免責

このノートは抽象度が低く、別の言い方をすると、かなり本の内容が詳細に反映されているものになっています。したがって、一部の公開にとどめようと思います。

本の内容

この本は今日の「生態動的農法」あるいはカタカナ語で「バイオダイナミック農法」と呼ばれている有機農法の始祖「ルドルフ=シュタイナー」による講演録で、「生態動的農法」の書籍の草分け的な存在になります。

講演は1924年6月7日〜6月16日まで開催されたものです。

まだ第二講までしか読んでおらず、その第二講も途中までしかノートを作っていませんが、ここまでの(自分なりに理解した)内容をかなりかいつまんで紹介すると以下のようになります。

  • 植物は自分では動けないので、動物や人間と比べて、天体運行の影響に依存する部分がより多い。
  • 植物の生長に関しては、植物単体を観察するだけでなく、農場全体を一つの生命に見立てて、その中での位置づけや天体運行状態から総合的な視点で観察する必要がある。
  • 天体から植物への働きかけをより多く捉えて利用するために、今日あまり重要視されていない物質が寄与している。

講演録という性質上、図版は多くありません。しかし講演中にシュタイナーが板書したものが写真と複製で残っています。

この本との向き合い方

私は農業を本業としているわけではないので、この書籍は手元にあるわけではなく図書館で借りたものです。時々借りて、少しずつ読み進めています。

借りても二週間の返却期限では、なかなか読み進めることができず、諦めて返し、また気が向いては借りるということを繰り返していました。もう割り切って「全部は読まない」とし「二週間で一講ずつノートを作っていこう」としました。すると意外に楽になったばかりか、内容もよく理解できるような気がします。1

海外の Wikipedia でバイオダイナミック農法を見てみると押しなべて「難解」と書かれています。たしかにシュタイナーの本はいずれも、一読しただけでは理解が難しい。2 あえてそのように作ってあるそうです。文字と格闘し、文章と格闘し、段落と格闘し、必要に応じては他の書籍を参照したりして吟味し、その意味を推敲する。そのようにして頭の中で、まるで料理をするように言葉を刻んだり煮込んだりして自分のものにしていく思考作業に大きな価値があるとシュタイナーは考えているようです。

シュタイナーの他の著作を取り上げた勉強会でも、そのように歩を進めていくスタイルをとっていました。これはもう農耕型読書でもありません。収穫しては料理や醸造を行い、それを味わい飲みこみ消化してからまた次の段落にとりかかる。そんなイメージです。

サポンテは勉強中 PC をなるべく使わないようにしたいと思っている__本業エンジニアなので、なるべく画面から離れた時間を取りたいためです__のですが、今回は下書きに一部使ってしまいました。時間がかかりすぎると感じたためです。しかし PC による編集効率の良さが仇になることもあるということは、今回改めて感じました。紙には紙のよさがあるという以上に、上記の「消化」過程に、なんと言うか「よく噛まずに飲み込む拙速さ」のようなものを感じました。

バイオダイナミック農法は誤解を持って語られることが多いですが、それは、多くの場合にこうした「消化」過程を厭う人が多いからなのではないでしょうか。異なる文化、概念に触れる場合は、異なる「消化」過程を経る必要があり、そうでなければ見えてこない側面が必ずあると考えます。3

ノートの作り方

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段落ごとに、概要、まとめ、得られた知見、図版の複製を記してあります。

しばらくそうやってノートを作りながら文章と格闘していると、いくつかの段落で内容が一続きになっている単位があることに気づきました。当然といえば当然なのですが、ノートを作っているとよくあることでもあります。このため後半は複数の段落で同様のまとめを行っています。

図版は少ないので、必要と思われるものは自分で描き起こして追加していきます。また掲載されている図版を写す場合でも、さらに加筆をして写しています。

反省点

かなり抽象度が低く、自分としてはもう少し踏み込んでまとめたいです。とくに最初の方では、内容にある程度のまとまりがある複数の段落ごとではなく、実際の段落ごとに概要を記しただけで、見出しも付いていません。ノートは、本の全体を俯瞰するためのような使い方もするため、記述量が多すぎるとその妨げになります。本の内容をほとんどそのまま書くとしたら、それは本を買えばよいだけの話になってしまいます。

さすがに一つの講の内容はけっこうな分量になるので見開き2ページにというわけにはいきませんでした。それでも見開き4ページくらいには収めたいところ。

本文には小見出しが無いので単に段落番号だけを記していますが、目次を見ると小見出しに使えそうなキーワードが並んでいました。もっと早く気づくべきでした。

ひょっとしたらもう一度ノートを清書するかもしれません。もう途中からはそのつもりで書いているフシもあります。しかしながら、文章から得られた洞察から思いついたことも併記していきたい野心の芽生えもあり、清書のしなおしは抽象化・圧縮というよりむしろ膨らんでしまいそうな気もしています。


  1. しかし結局二週間でも第二講全部を終えることはできませんでした。やはり「難解」なのは否定できません。

  2. 難解な本や古典には珍しくないですが、 シュタイナーの『農業講座』を読む という、本を読むことが本になるという事態になっています。しかし実際として、シュタイナーはこの講座の翌年にはもう亡くなってしまったので、遺された文献から紐解いていくしかありません。

  3. サポンテの大好きな本の「アイヌ語の贈り物」で、次のように書かれています「実際、人類学や動物学の分野で、これまで予断と偏見に満ちていた異民族の文化研究や動物行動の研究が、対象への共感と共鳴によって新しい見方や世界が発見され、従来のものの見方がくつがえされることがしばしばあります」。

自由について ... プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社) (2)

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

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前回のつづきです。

プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社) - サポンテ 勉強ノート

discpline

 日本では子供の個性を尊重し、自由に育てるべきだとされている、と私は言う。 「それは私たちのやり方ではないわ」とジェシカはこちらに気を遣いながらもきっぱりと答えた。「ごらんなさい、それで世の中がどうなっているか。子供にはしつけが必要なの」  しつけ、と訳したが、彼女が実際に使ったのは discipline という言葉だ。これには”訓練、規律、懲戒”という意味も含まれる。アーミッシュにとって「しつけ」とは、親の勝手な意志に子供を従わせるということではない。従うことは信仰と生活の一部でもある。親に従い、共同体に従い、そして最終的には神に従うこと。

他の箇所ではアーミッシュの子どもが、子どもと言えど4歳にもなれば少しずつ家族の労働力の一端として仕事を任されることが紹介されます。洗礼を受ける期限の22歳までに、アーミッシュとして独り立ちするのに十分な仕事ができるようになるとのことです。これらのことも discipline に含まれるのでしょう。

実際のところ「自由に育てる」といいながら、この社会ではただ子どもを「放置」しているに過ぎないのではないでしょうか。 マニュアル人間とアンチマニュアル人間 のところで書いたことに似ていますが、規則や予定にがんじがらめになって個性が抑圧されるのは良くないとして、ただそれを取り去るだけでは別の問題を招いてしまう。代わりの「子どもの成長に必要」なものを与えることを何もしていない__それが必要であることにも気づいていない__のではないでしょうか。子どもの身体の成長にとって食べ物が必要なように、脳の成長にとって学問が必要なように、自由さを手に入れるためには discipline が必要なのではないでしょうか。

自由を手に入れるために規律が必要というのは矛盾に聞こえるでしょうか?では皆さんにとって「自由」とは、どのような状態のことを指すでしょうか。何ものにも縛られず、気ままな状態のことでしょうか。

自由とは無束縛に過ぎないものではない

私にとって自由の定義は「自分で設けた、あるいは自分で選んだ、または自分に課した規律に従い徹することを通して、降り掛かる困難に立ち向かい、自分の人生を、自分の望むように統制する能力を身につけること、およびその状態」です。1

例えば「医者になりたい」と思った人間が、そのため長期にわたる計画に基づいて勉学に励むこと。

例えば「政治家になりたい」と思った人間が、そのために多くを学び、長い時間をかけて人脈をつくり、その生涯を通じて粘り強い活動を続けていくこと。

これらのことは「何ものにも縛られず、気ままに」日々を過ごしているだけでは、決してなし得ません。目的地にたどり着くためには、どうしたらその場所にたどり着けるかを知ること、どうしたらその場所にたどり着ける力を付けられるかを知ること、そして絶対に必要なのは、たどり着くために歩き続けるという ルール自分で自分に対して 課し、それを 守ること です。

何をしたら良いかわからない

しかし自分に課すルールは、どんなものを選べば良いでしょう。それはどうやって見つけたら良いでしょうか。違う言い方をするならば、子どもはそれをどうやって誰から学べば良いでしょう。

成熟した社会では、若年層の無気力が問題になってきます。それは規律に縛られなくとも、強い指針がなくとも、とりあえず生きていけるという安心感の裏返しです。

生きるためには個性よりも恊働体の結束が大切だという認識が薄れてくると、規律や規範は、時代にそぐわない古くさいものに思えてきます。そんな古くさいものに拘っているのは最早、呪縛に過ぎないとさえ感じる人も出てきます。

そこからの「脱却」「解放」を求める声が多く、大きくなります。その結果、解放されたものの依るべきものを持たない漂うばかりの個人や小規模なコミュニティが乱立するような状態になります。

ついには依るべきものがないという無意識の不安と、それを渇望する潜在意識と、確固たるものを見つけられなかった自由さへの反動として、ナショナリズムへの傾倒を生み出す。それを繰り返し今日に至っています。この傾向は十九世紀末ほどからずっと続いています。

アーミッシュの人たちは頑なではあっても確かな指針を親から子へ伝え、社会を持続可能な形で存続させている実績を持っています。たとえ私たちの理想とは異なっていても、この漂い、彷徨う社会に生きる私たちは敬礼して教えを請うべきものがあるのではないでしょうか。


  1. 自分でこしらえたこの定義に従えばサポンテはまだまだ全然ダメです。もう奴隷です。怠惰と怯懦と欲望の奴隷です。

追加した SQL アンチパターン「背の順」の説明

はじめに

前回の投稿 で詳しく書くつもりだったのが失念していました。

目的

SELECT 文を使って出力するリストの順番を、ユーザーが自由に制御できるように「表示順序」のようなカラムを持たせる場合があります。

完全に制御したい場合、ユニークキーを付けたいところですがジレンマがあります。例えば 1, 2, 3 と連続しているレコードの 1 と 2 を入れ替えたい場合、どちらのレコードを先に直すにしても(ユニークキーがついていますから)1 を 2 にすることも 2 を 1 にすることもできません。一旦「4」などの別の数字を入れなければならないのです。その時 4 が空き番になっているかどうかについても先に調べておく必要があります。これはいささか不便です。

それに本当は 4 にしたいわけではありませんから、嘘の数字を登録することになります。たとえ一時的にもシステム内に「嘘」が登録されるということを開発者は好みません。

またその嘘の数字を入力した状態で突然緊急の電話がかかってきて、担当者がその数字を本来の正しいものに直すことを失念してしまったら大変です。開発者はこうした状況も想定し「フール プルーフ」としてもシステムに嘘が登録される危険性を排除しておくべきなのです。

そこで、わざとユニークキーを付けないでリリースします。これなら上記のようなジレンマを解消できます。

アンチパターン

そして開発者は表示するリストのソートに、この「表示順序」カラムを利用します。

しかしユーザーは開発者が思いもしない使い方をするものです。なんと「表示順序」にすべて同じ数字を入れてしまったのです。

「全部同じ数字を入れたら名前の順番に並ぶんでしょ?」1

そんな仕様はありませんが、リストの並びも、順序を前提とした集計結果が間違っていることも、一見してわかります。

背の順

「背の順に並んで!」小学校の時、先生にそんな風に言われなかったでしょうか?これnなら背の高い人が邪魔になって前が見えないということがないので理にかなっています。校長先生の顔を見たいかどうかはシステム的には感知しません。

このとき同じ程度の背丈の友達と顔を見合わせ途方に暮れた経験はありませんか?(その程度のことで「途方に暮れる」というのは誇張がすぎるでしょうが)そのようなイメージで命名しました。

ユニークではない項目だけを使ってソートした結果は一定ではありません。そのようなクエリを書いたり、その結果が期待通りであることを想定したロジックを作ってはいけません。

アンチパターンが有効な場合

希に、システムルールよりも厳格はビジネスルールで窮屈な運用している企業があります。そういうところでは問題は顕在化しないかもしれません。

しかし上記の「緊急事態」の件も含め、想定しない利用をするユーザーはいるものです。このアンチパターンを正当化する理由はありません。

たとえユーザーが「表示する順序を明示的に決定する項目を設けて、その順序に従ってリストしてほしい」と言ったとしても、それがユニークでないのなら、開発者には「その次の優先キーを何にするか」提案し、同じ表示順序が登録されてしまった場合の「フール プルーフ」を実装する責任があります。

解決策

ユニークであるカラムを ORDER 句に含めればいいだけですので、この問題を解決する上での工数も少なく、躊躇する必要はないでしょう。


  1. 実話です。

徹底攻略 PHP5 技術者認定 [上級] 試験問題集 [PJO-200]対応 (鈴木憲治 (著), 堀 邦彰 (著), 水野史土 (著), 山田裕進 (著), PHP技術者認定機構 (監修), 株式会社ソキウス・ジャパン (編集) インプレス)

免責

この本は問題集ですが、問題は書いていません。解説についてもかなり抜粋し、自分だけに解るかたちに省略しています。なのでこのノートから本の内容を展開することはできません。

本を分割

この本はもう完全に試験用と割り切り、持ち運びに都合がいいように3つに分割しました。

サポンテは本を奇麗に読む方なので、とても心が痛みます。しかしこの痛みをバネに、合格を決意するのです。

14章からスタート

初めの方から手をつけて最後の方が息切れするといけないので、3つに分けたうちの3つ目、14章からスタートしました。

まず問題を解いてみます

解説は読まずに、まずは素で問題を解いてみます。

解答の右に書いてある1〜10までの数字は、それぞれの答えに「どのくらい自信があるか」を示しています。10なら10割、つまり100%の自信をもって答えました。逆に1ならかなり自信がないものということになります。

正答率は 14 問中 6 問、49.2% でした。100%自信ありの問題も間違えています。まったく合格する気がしません。

ノートの内容

解説を読み、以下のことを書き出していきます。

  • 自分の知らなかったこと
  • 引っかかったこと
  • 気になって、後で調べてみようと思ったこと
  • 試験前に確認するキーワード

100%自信ありで間違えたもの

スタックの動作で、最後に入れたものが「末尾」と認識していました。だって最後ですから。そして「末尾から取り出す」のがスタックだと思っていました。動作としては同じなのですが、最後に入れたものが「先頭」なのだそうで。取り出す動作をするときにどっち側なのか、なのですね。

「先頭から詰めていき、先頭から取り出す」

うーん。満員電車?

PEAR

あんまり使わないな〜。と思うものは覚えるのに抵抗がありますね。しかし「今使っていない」と「今後も使わない」とは違いますよね。「知らないから使えない」ものもきっとあるし、勉強ってそういうものですものね。

それにサポンテは「全く役に立たず、意味があるとは思えず、なんだかよく解らないものを一生懸命やる」ということを通してしか「忍耐力」は養えないと思うのです。なぜなら「役に立つこと」「意味があること」「理解し納得できるもの」はやりがいもあって、やっていて心が奮い立つものですから「忍耐」の内に入らないからです。忍耐力は数学に必要な素養ですからね。

つづく?

この勉強ノート、最初の正答率とかも清書に書くのは(そして公開するのは)やはり抵抗があるので続くかどうか分りませんが、気が向いたらまた部分的に公開していくかもしれません(この14章も見開き2ページに収まらなかったので「部分」です)。

プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社)

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

はじめに

キリスト教の共同体(恊働体)について興味があったので、図書館の「宗教」の棚から、この本を借りてきました。

半分が写真なので文章はページ数の約半分ほどで、直ぐに読めます。

キリスト教

アーミッシュという言葉を初めて知ったのは多くの人と同じようにハリソンフォード主演の映画からでした。その他にはアーミッシュという言葉がキリスト教のひとつの宗派であることを知っている程度でした。

知らない人のために、この本に紹介されている「アーミッシュとはなにか」をかいつまんで紹介します。マルチン・ルターが「聖書の教える本来のキリスト教に戻るべきだという宗教改革運動」を起こして「聖書の教えに従うならば、洗礼は成人の自由な意志によるものであるべき」と唱えて主流派から離れた。成人後に自由意志で再び洗礼を受けたので「再洗礼派」と呼ばれた。その後、再洗礼派に「メノ・シモンという穏健派の強力なリーダーが現れ、その名をとってメノナイト(メノー派)と呼ばれるようになった」。その後、メノナイトのリーダーの一人ジェイコブ・アマンが「もっと聖書に忠実に、よりキリストに近い生活を実践するべきだ」と唱えて、後にメノナイトを離れた。アマンに従った人たちがアーミッシュ(アマン派)となった。やがて迫害を避けて新大陸に渡り、今日アメリカに存在するアーミッシュになったということです。

アーミッシュの中の子どもたちは成人後に、洗礼を受けて留まるか別の道を行くのかを選択できるのですが、この本によると8割強がアーミッシュを選択するとのことです。

由来はドイツ系移民

アーミッシュはドイツが起源とのことで、コミュニティではドイツ語とドイツ語の方言が使われているとのことです。英語は小学校に入ってから学びます。これは知りませんでした。

アーミッシュの村があるわけではない

特定の自治体の内部だけに固まって閉鎖的な生活を送っているわけではなく、アーミッシュではない他の人たちと同じ場所で生活しているそうです。そうでない人たちと同じ場所で質素で禁欲的な生活を送るというのは、相当な覚悟というか強い信念・信仰心というものが必要でしょう。

勉強することも罪

アーミッシュは『自分の意志を捨てて、神の意志に服従する』ことを進行の基本としている。」「目立とうとすること、人より抜きん出ようとすること、プライドを持つことは、聖書の教えに逆らう罪となる。だから高等教育を受けることは禁じられる。教育、すなわち知識を得ること、勉強することも罪とされる。 『必要以上の学問は、自分を他人より優れたものにする、つまりうぬぼれを育てることだから』

教育関係者が聞いたら理解に苦しむことかもしれませんが、はたして高校生だった頃の自分の胸に聞いてみるとどうでしょうか。

「でも学校を卒業したら、働きたくなるのよ。」

自分もそうでした。

「生徒たちは学校が好きだし、登校を嫌がる子はいない。でも八年生(一四歳)ぐらいになると、学校で机に向かっているより、畑に出たがる生徒もいます。畑仕事も一人前になってくるし、特に農繁期になると忙しいから。アーミッシュの学校は一五歳で終わるからいいけれど、こういう子たちがもし高校に行っていたら、確実に落ちこぼれるんじゃないかしら。外の世界の一般の高校が問題を抱えるのは当然だと思う。あの年頃の子供のなかには、身体を思いきり動かすことが必要な子供もいると思うんです。机に向かっているよりもね」

確かにそういう選択肢もあれば良いと思います。

サポンテはかねてから日本の教育の最大の問題点は「選択肢が少ないこと」にあると思っています。働きたくなった時に働き、学びたくなった時に学ぶということができずに、どうして人を育てることができるでしょう。なぜなら、どちらも人として大切なことだからと思うからです。学んだら、学んだことを労働に適用したいと考えるのは当然です。働いていて自身の能力に行き詰まりを感じたら、何かを学びたいと考えるのも当然です。現代では、それはすべて個人の能力と個人の自助努力__または親の経済的能力__だけに頼っています。それはなにか見落としまうのではないかと思うのです。もっと自由に、もっと気軽にそうした生き方のスイッチができればと思います。

写真の多いこの書籍ですが、アーミッシュの学校の写真はありません。その理由は本文に書かれていますが、取材行為が学校にいる子どもたちにパニックを引き起こすからだとのことです。そういった話は他のオルタナティブスクールでも聞いたことがあり、解るような気がします。

しかし以下の書籍では表紙にその建物の写真が使われているので見ることがます。

アーミッシュの学校

アーミッシュの学校

映画をめぐる騒動

私の見た 映画 は、やはりというか、アーミッシュの中では気に入られていないようです。気に入られていないどころか、そうとうな抗議があった模様です。

アーミッシュには「目立ちたくない」という基本的な信念があります。世界の好奇心は迷惑なものでしかないのでしょう。

しかし行き詰まった世界の側はアーミッシュの哲学を必要としています。

共産主義をひたすら否定していた時代

最近、とても強く感じることがあります。それは自分の世代が「共産主義への敵視を徹底的に植え付けられた世代」であるということです。政策に端を発し、マスメディアを通じてプロパガンダされ、冷戦という絶滅戦争への恐怖によって裏打ちされた敵愾心です。

それは「全体主義よりも競争社会」「家族よりも個人」「協調よりも自由」「恊働よりも競争」そういった言外の価値観が自分の中、自分と同世代の人間の中に強く感じ、自分たちの世代の前後に希薄であると思い知らされることが多いためです。

ビジネス書や先端のネット記事には「チームワーク」「リーダーシップ」「WIN-WIN」「ホラクラシー」などのキーワードが並んでいます。自分の中に「それはそうだ」という明確な思考と同時に、ハッキリこうだとは言えない違和感があったのです。それが何なのか、最近その答えの一つに「共産主義への敵視を持つ世代に属していること」があるのではないかと思い至りました。

恊働が必要な動物

ヒトは一人では生きていけません。サバンナやジャングルや孤島に放り出されて生きていくのは困難な動物です。だから絶対に恊働が必要なのです。しかし共産主義への敵視を経験した国では、その部分が少し損なわれてしまった人が多い。そしてその欠落が何なのか解らないまま、別の何かで埋め合わせようと、各々がバラバラに、半ばやぶれかぶれの手段を用いて生きてきた。その世代が現在、世界の中心となって、そして以来、混乱の余波が続いている。そんな状況になっているように見えます。

見出すべきもの

既に共産主義社会主義を用いることが出来ない現在の世界でも、それでも古い共同体から学ぶ必要があります。それは懐古趣味でも回帰主義でもありません。これら古い共同体は、すでに実績のある「持続可能社会」に他ならないからです。

まとめ

  • この本ではアーミッシュについて簡単に紹介しています。簡単ですが驚きに満ちています。
  • より詳しく知りたい場合はいくつかの 書籍 があります。

野焼きについて

野焼き

自宅の周囲の市町村では毎年春と秋に川原などで野焼きをしています。それだけではありません。一般市民もこぞって畦草など刈っては晴れた日に野焼きをしています。

自分は実は喉が弱く、それが原因で気管支炎などを時々患っていました。正直やめて欲しいと思っていました。せっかく空気のきれいな田舎に暮らしているのに、春と秋にはそれを胸いっぱいに吸うことが出来ない(とは言え、もちろん東京と比べれば格段に良いのですが)。 その季節は空気もかすんで風景も残念な感じになっています。

法律

「改正・廃棄物処理法」「焼却禁止の適用除外規定」

「農業、林業または漁業を営むためにやむを得ないものとして行われる廃棄物の焼却」雑草の焼却はこれにあたるんでしょうか。それとも「たき火その他日常生活を営む上で通常行われる廃棄物の焼却であって軽微なもの」に当たるんでしょうか。そこかしこで行われているので地域一帯がかすんで、とても軽微とは言えないのですが。

理由

周辺地域では「除草のため」と言われています。しかし毎年行われている割には効果がまったく無いように感じます。夏・秋の草の勢いは容赦ありません。「え?効果あるよ」という人もいらっしゃるかもしれません。確かに庭でたき火をやってしばらくは草が生えず、除草効果が感じられます。しかし野焼きはたき火のように一つところで長い時間燃やしません。土の表面をなでるように焼くだけで、炎に触れている時間は短いです。そのため土中の種は死にません。

それでも野焼きの後の土手は真っ黒になります。春、緑を心待ちにしているところに黒焦げの土手を見ていると、とてもわびしい気持ちになります。

それに草はどうせ勢いよく生えているのだから、堆肥にするなど、もっと有効な使い道があるのではないでしょうか。

以上が野焼きに対する負の私見です。

温暖化の抑止

野焼きの煙は「エアロゾル」となって大気中を漂い、太陽光を反射したり吸収したりして温暖化を少し妨げます。最近になって気候変動が加速したのはアメリカの大気浄化法が制定されたのも一因であるとも言われます。

これは野焼きに対する正の私見です。

そんなわけで野焼きについては「好きではない」のは確かなのですが、良いか悪いかと言えば「どちらともいえない」という気持ちでした。

最近読んだ本

「ガビオタス 奇跡のエコ集落」という本を読み、オーディオブックの「旧約聖書」を通勤中に聞いていたところ、どちらにもイナゴが登場します。

自宅の周囲の市町村には、田んぼや麦畑が多い。自分は去年まで7年ほど水稲栽培をしていました。そして1年目ですでにイナゴがほとんどいないことに気づいていました。

ここにきて野焼きでそれらの卵が死んでいるのかもしれないということに思い至りました。

田畑と違い、川原に農薬は撒かれません。川原には葦やススキなどイナゴが食べるにも棲むにも好みそうな植物がたくさん繁茂しています。それでもその姿をあまり見ないのは、野焼きがそれら害虫の卵を焼いている可能性があります。

野焼きに対する正の私見が一つ増えました。

まとめ

  • 野焼きは喉に厳しいです。
  • 野焼きは温暖化をいくらか和らげています。
  • 野焼きは除草に効果がありませんが、除虫には効果があるようです。
  • 好きか嫌いかと言えば、やはり好きにはなれません。

ついでに蝗害について少し調べましたが、とても興味深かったです。

花九曜印 いなご甘露煮 EO缶 #5 150g

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半島を出よ (村上龍 幻冬舎)

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)

はじめに

村上龍の本は初めてです。一度読んでみたかったというのもあります。そもそもそんなに小説を読む性質ではないので。

この本はを読もうと思ったのは、最近読んだ「本を読む人だけが手にするもの」に紹介されていたからというのが大きいです。その中では、とにかく執筆に当たって参考にした資料が質、量ともにとんでもなく多いということが紹介されていました。

だから細部にいたるまで徹底してリアルな描写があるのだと思って期待していました。というとなんだか期待はずれだったみたいな言い方ですが、そうではなく、期待していなかった部分がとても心を捉えたのです。

大雑把に内容を書くと

北朝鮮の特殊部隊が福岡ドームを武力制圧し、その後に続いて到着した部隊とともに福岡を日本から独立させようと作戦が進められていきます。事を素早く進める北朝鮮の部隊に対して、後手に回って有効な手立てが取れない日本政府。替わりに対抗するのは、カリスマ的なホームレスの元に集まっていた破壊願望とうまく折り合いをつけられなかった少年達。

… といった内容です。

生きている内容

確かに脱北者に聞き取りまでして書かれた北朝鮮兵士の姿はいきいきとしていましたし、残酷な拷問の描写も、残念ながら今も実際に行われていることを基にして書いているのでしょう。

2005 年に書かれた小説で、舞台は 2011 年。つまり「近未来」という想定で描かれています。2005 年と現在とでは社会情勢が異なるため、既にやや現実味がないと感じられるところはあります。Amazon の低評価レビューでリアリティが無いとする意見は、この時代背景のズレがあるのかもしれません。

現在の好戦的な政府から見ると、この本の中の日本政府の対応の不適格さは考えにくい。また北朝鮮が長距離ミサイルを次々に開発・実験している現状では、いきなり地上部隊を投入するというのも考えにくい。12万人もの兵士を無防備に船で送り出すというのもリスクが大きすぎる。など、私が感じるだけでもいろいろあります。時代は変わったなと思います。

心をとらえたもの

私の心を捉えたのは、そうした知らなかった北朝鮮の文化(念のため、もちろんこの本はフィクションですが)や日本の政治の脆弱性ではなく、対抗する少年達の生い立ちでした。

自分の心の中に浮かび上がってくる感情をうまく表現したりコントロールできないだけで、周りの人たちに誤解されたりして居場所が無くなり、健康な人生を送れなくなってしまった少年達。でもたまたま福岡にそれを受け入れてくれる場所があり、なんとなく集まっていた。

本を読む大きな理由の一つに「既に知っているけれど漠然としてはっきりとはしない事柄を、言葉にして詳しく確かなものとして現実化する」というものがあると思うのですが、この少年達の心のありようには確かにそれが表現されていると感じたのです。

感じたこと

4分の1ほど(つまり上巻の半分)読み進んで思ったのは「短い」ということでした。

登場人物の中から特定の人物ひとりを中心に短いストーリーが、まるでオムニバスのように連続したり重なったりしながら進んでいきます。その中には北朝鮮の人物も含まれています。北朝鮮の中の特定の場所や建物、人物の感情の機微も詳細に描かれていて驚かされます。そのためなのか、どのエピソードももっと読みたいと若干のもの足りなさを感じるのです。描かれている事件の内容にしてはあっさりしていると感じました。紙数の関係で、結構削られてしまったのでしょうか。

お気に入りは「山際」さんの章なのですが、その後日談は非常に気になります。

少年たち

私が引きつけられた少年たちは、それぞれが爆薬や毒物やブーメランのスペシャリストだったりしています。それぞれに自分の中に破壊願望を持っています。当然ながらそのような気持ちを持ちながらでは、学校や家庭の中で居場所が持てないでいます。でもこの本に描かれている少年たちだけではなく、世の中には同じような人がもっと居るはずです。自分の中にある「他人と共有できない気持ち」を抱えて生きている人が。

この本はフィクションですが、前述のようにかなり綿密な事前調査を行っています。描かれている少年たちの機微について、フィクションだけであるとは思えない部分が多々ありました。

そうした「少なくない人たち」は概ね「気持ちにフタをして社会と関わって生きていく」か「なるべく社会に関わらないように生きていく」かのどちらかを選ばされます。本の中で少年たちは、そのどちらでもない居場所に落ち着いています。気持ちにフタをすることなく、かといって他人との共有を強いられることもない居場所。なかなかこうした場所は見出すことができないでしょう。しかし必要とする人はやっぱり「少なくない」のです。成熟社会ではこうした人たちは「少なからず」生まれます。

少年たちが福岡のホームレスの元に集まった。描かれているその理由・生い立ちは様々ですが「他人の気持ちを共有するように強いられた」という点で同じではないかと思うのです。それは、人によっては健康を害し、人生を損ねる場合があるのです。それを最近の言葉では同調圧力というのでしょうか。この言葉は 2010 年代に入ってよく聞かれるようになりました。

特にこの傾向はフロイトユングが仲違いした余波に端を発した外向型人間社会が、ずっと勢いを持って広がっていることによるものと考えることもできます。

北朝鮮と日本に共通するもの

北朝鮮に(行ったことはありませんが)こうした同調圧力のようなものが無いかと言えば、そんなことは無さそうというのは、皆様も知るところだと思います。

加えて北朝鮮と日本では官僚主義という共通点もあります。かたや経済を基本とした官僚主義、もう一方は戦争を基本とした官僚主義があり、ともに硬直し、腐敗し、行き場を失っています。

日本にはホームレスが居て、北朝鮮にも貧困があふれている。

こうして見ると共通点が多いというべきか、人の悩みはいつも尽きないと言うことなのでしょうか。私はもう「完璧な世界など無い」というニヒリズムに耽って事足りるほど若くもないですし、この世界になにかを見出したいと思っています。そしてこの本からも、何かを見出したいと思います。

少年たちが見出したもの

タテノという少年は最後に、楽しいというのは何かをしているのではなく、大切に思える人と一緒に居ることだと後輩に言って聞かせます。

特に自分の周りにかもしれませんが「常に何かをしていないと居られない人」や「常に一緒に居る人と気持ちや考え方を共有していないと気が済まない人」が多いように思います。そうでなくても居られる場所が__この本の中に在るように__あればいいのになと思いました。