サポンテ 勉強ノート

サポンテの勉強ノート・読書メモなどを晒します。

徹底攻略 PHP5 技術者認定 [上級] 試験問題集 [PJO-200]対応 (鈴木憲治 (著), 堀 邦彰 (著), 水野史土 (著), 山田裕進 (著), PHP技術者認定機構 (監修), 株式会社ソキウス・ジャパン (編集) インプレス)

免責

この本は問題集ですが、問題は書いていません。解説についてもかなり抜粋し、自分だけに解るかたちに省略しています。なのでこのノートから本の内容を展開することはできません。

本を分割

この本はもう完全に試験用と割り切り、持ち運びに都合がいいように3つに分割しました。

サポンテは本を奇麗に読む方なので、とても心が痛みます。しかしこの痛みをバネに、合格を決意するのです。

14章からスタート

初めの方から手をつけて最後の方が息切れするといけないので、3つに分けたうちの3つ目、14章からスタートしました。

まず問題を解いてみます

解説は読まずに、まずは素で問題を解いてみます。

解答の右に書いてある1〜10までの数字は、それぞれの答えに「どのくらい自信があるか」を示しています。10なら10割、つまり100%の自信をもって答えました。逆に1ならかなり自信がないものということになります。

正答率は 14 問中 6 問、49.2% でした。100%自信ありの問題も間違えています。まったく合格する気がしません。

ノートの内容

解説を読み、以下のことを書き出していきます。

  • 自分の知らなかったこと
  • 引っかかったこと
  • 気になって、後で調べてみようと思ったこと
  • 試験前に確認するキーワード

100%自信ありで間違えたもの

スタックの動作で、最後に入れたものが「末尾」と認識していました。だって最後ですから。そして「末尾から取り出す」のがスタックだと思っていました。動作としては同じなのですが、最後に入れたものが「先頭」なのだそうで。取り出す動作をするときにどっち側なのか、なのですね。

「先頭から詰めていき、先頭から取り出す」

うーん。満員電車?

PEAR

あんまり使わないな〜。と思うものは覚えるのに抵抗がありますね。しかし「今使っていない」と「今後も使わない」とは違いますよね。「知らないから使えない」ものもきっとあるし、勉強ってそういうものですものね。

それにサポンテは「全く役に立たず、意味があるとは思えず、なんだかよく解らないものを一生懸命やる」ということを通してしか「忍耐力」は養えないと思うのです。なぜなら「役に立つこと」「意味があること」「理解し納得できるもの」はやりがいもあって、やっていて心が奮い立つものですから「忍耐」の内に入らないからです。忍耐力は数学に必要な素養ですからね。

つづく?

この勉強ノート、最初の正答率とかも清書に書くのは(そして公開するのは)やはり抵抗があるので続くかどうか分りませんが、気が向いたらまた部分的に公開していくかもしれません(この14章も見開き2ページに収まらなかったので「部分」です)。

プレイン・ピープル --アーミッシュの世界-- ( 栗原 紀子(著), 長谷川 朝美(写真) 愛育社)

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

プレイン・ピープル―アーミッシュの世界

はじめに

キリスト教の共同体(恊働体)について興味があったので、図書館の「宗教」の棚から、この本を借りてきました。

半分が写真なので文章はページ数の約半分ほどで、直ぐに読めます。

キリスト教

アーミッシュという言葉を初めて知ったのは多くの人と同じようにハリソンフォード主演の映画からでした。その他にはアーミッシュという言葉がキリスト教のひとつの宗派であることを知っている程度でした。

知らない人のために、この本に紹介されている「アーミッシュとはなにか」をかいつまんで紹介します。マルチン・ルターが「聖書の教える本来のキリスト教に戻るべきだという宗教改革運動」を起こして「聖書の教えに従うならば、洗礼は成人の自由な意志によるものであるべき」と唱えて主流派から離れた。成人後に自由意志で再び洗礼を受けたので「再洗礼派」と呼ばれた。その後、再洗礼派に「メノ・シモンという穏健派の強力なリーダーが現れ、その名をとってメノナイト(メノー派)と呼ばれるようになった」。その後、メノナイトのリーダーの一人ジェイコブ・アマンが「もっと聖書に忠実に、よりキリストに近い生活を実践するべきだ」と唱えて、後にメノナイトを離れた。アマンに従った人たちがアーミッシュ(アマン派)となった。やがて迫害を避けて新大陸に渡り、今日アメリカに存在するアーミッシュになったということです。

アーミッシュの中の子どもたちは成人後に、洗礼を受けて留まるか別の道を行くのかを選択できるのですが、この本によると8割強がアーミッシュを選択するとのことです。

由来はドイツ系移民

アーミッシュはドイツが起源とのことで、コミュニティではドイツ語とドイツ語の方言が使われているとのことです。英語は小学校に入ってから学びます。これは知りませんでした。

アーミッシュの村があるわけではない

特定の自治体の内部だけに固まって閉鎖的な生活を送っているわけではなく、アーミッシュではない他の人たちと同じ場所で生活しているそうです。そうでない人たちと同じ場所で質素で禁欲的な生活を送るというのは、相当な覚悟というか強い信念・信仰心というものが必要でしょう。

勉強することも罪

アーミッシュは『自分の意志を捨てて、神の意志に服従する』ことを進行の基本としている。」「目立とうとすること、人より抜きん出ようとすること、プライドを持つことは、聖書の教えに逆らう罪となる。だから高等教育を受けることは禁じられる。教育、すなわち知識を得ること、勉強することも罪とされる。 『必要以上の学問は、自分を他人より優れたものにする、つまりうぬぼれを育てることだから』

教育関係者が聞いたら理解に苦しむことかもしれませんが、はたして高校生だった頃の自分の胸に聞いてみるとどうでしょうか。

「でも学校を卒業したら、働きたくなるのよ。」

自分もそうでした。

「生徒たちは学校が好きだし、登校を嫌がる子はいない。でも八年生(一四歳)ぐらいになると、学校で机に向かっているより、畑に出たがる生徒もいます。畑仕事も一人前になってくるし、特に農繁期になると忙しいから。アーミッシュの学校は一五歳で終わるからいいけれど、こういう子たちがもし高校に行っていたら、確実に落ちこぼれるんじゃないかしら。外の世界の一般の高校が問題を抱えるのは当然だと思う。あの年頃の子供のなかには、身体を思いきり動かすことが必要な子供もいると思うんです。机に向かっているよりもね」

確かにそういう選択肢もあれば良いと思います。

サポンテはかねてから日本の教育の最大の問題点は「選択肢が少ないこと」にあると思っています。働きたくなった時に働き、学びたくなった時に学ぶということができずに、どうして人を育てることができるでしょう。なぜなら、どちらも人として大切なことだからと思うからです。学んだら、学んだことを労働に適用したいと考えるのは当然です。働いていて自身の能力に行き詰まりを感じたら、何かを学びたいと考えるのも当然です。現代では、それはすべて個人の能力と個人の自助努力__または親の経済的能力__だけに頼っています。それはなにか見落としまうのではないかと思うのです。もっと自由に、もっと気軽にそうした生き方のスイッチができればと思います。

写真の多いこの書籍ですが、アーミッシュの学校の写真はありません。その理由は本文に書かれていますが、取材行為が学校にいる子どもたちにパニックを引き起こすからだとのことです。そういった話は他のオルタナティブスクールでも聞いたことがあり、解るような気がします。

しかし以下の書籍では表紙にその建物の写真が使われているので見ることがます。

アーミッシュの学校

アーミッシュの学校

映画をめぐる騒動

私の見た 映画 は、やはりというか、アーミッシュの中では気に入られていないようです。気に入られていないどころか、そうとうな抗議があった模様です。

アーミッシュには「目立ちたくない」という基本的な信念があります。世界の好奇心は迷惑なものでしかないのでしょう。

しかし行き詰まった世界の側はアーミッシュの哲学を必要としています。

共産主義をひたすら否定していた時代

最近、とても強く感じることがあります。それは自分の世代が「共産主義への敵視を徹底的に植え付けられた世代」であるということです。政策に端を発し、マスメディアを通じてプロパガンダされ、冷戦という絶滅戦争への恐怖によって裏打ちされた敵愾心です。

それは「全体主義よりも競争社会」「家族よりも個人」「協調よりも自由」「恊働よりも競争」そういった言外の価値観が自分の中、自分と同世代の人間の中に強く感じ、自分たちの世代の前後に希薄であると思い知らされることが多いためです。

ビジネス書や先端のネット記事には「チームワーク」「リーダーシップ」「WIN-WIN」「ホラクラシー」などのキーワードが並んでいます。自分の中に「それはそうだ」という明確な思考と同時に、ハッキリこうだとは言えない違和感があったのです。それが何なのか、最近その答えの一つに「共産主義への敵視を持つ世代に属していること」があるのではないかと思い至りました。

恊働が必要な動物

ヒトは一人では生きていけません。サバンナやジャングルや孤島に放り出されて生きていくのは困難な動物です。だから絶対に恊働が必要なのです。しかし共産主義への敵視を経験した国では、その部分が少し損なわれてしまった人が多い。そしてその欠落が何なのか解らないまま、別の何かで埋め合わせようと、各々がバラバラに、半ばやぶれかぶれの手段を用いて生きてきた。その世代が現在、世界の中心となって、そして以来、混乱の余波が続いている。そんな状況になっているように見えます。

見出すべきもの

既に共産主義社会主義を用いることが出来ない現在の世界でも、それでも古い共同体から学ぶ必要があります。それは懐古趣味でも回帰主義でもありません。これら古い共同体は、すでに実績のある「持続可能社会」に他ならないからです。

まとめ

  • この本ではアーミッシュについて簡単に紹介しています。簡単ですが驚きに満ちています。
  • より詳しく知りたい場合はいくつかの 書籍 があります。

野焼きについて

野焼き

自宅の周囲の市町村では毎年春と秋に川原などで野焼きをしています。それだけではありません。一般市民もこぞって畦草など刈っては晴れた日に野焼きをしています。

自分は実は喉が弱く、それが原因で気管支炎などを時々患っていました。正直やめて欲しいと思っていました。せっかく空気のきれいな田舎に暮らしているのに、春と秋にはそれを胸いっぱいに吸うことが出来ない(とは言え、もちろん東京と比べれば格段に良いのですが)。 その季節は空気もかすんで風景も残念な感じになっています。

法律

「改正・廃棄物処理法」「焼却禁止の適用除外規定」

「農業、林業または漁業を営むためにやむを得ないものとして行われる廃棄物の焼却」雑草の焼却はこれにあたるんでしょうか。それとも「たき火その他日常生活を営む上で通常行われる廃棄物の焼却であって軽微なもの」に当たるんでしょうか。そこかしこで行われているので地域一帯がかすんで、とても軽微とは言えないのですが。

理由

周辺地域では「除草のため」と言われています。しかし毎年行われている割には効果がまったく無いように感じます。夏・秋の草の勢いは容赦ありません。「え?効果あるよ」という人もいらっしゃるかもしれません。確かに庭でたき火をやってしばらくは草が生えず、除草効果が感じられます。しかし野焼きはたき火のように一つところで長い時間燃やしません。土の表面をなでるように焼くだけで、炎に触れている時間は短いです。そのため土中の種は死にません。

それでも野焼きの後の土手は真っ黒になります。春、緑を心待ちにしているところに黒焦げの土手を見ていると、とてもわびしい気持ちになります。

それに草はどうせ勢いよく生えているのだから、堆肥にするなど、もっと有効な使い道があるのではないでしょうか。

以上が野焼きに対する負の私見です。

温暖化の抑止

野焼きの煙は「エアロゾル」となって大気中を漂い、太陽光を反射したり吸収したりして温暖化を少し妨げます。最近になって気候変動が加速したのはアメリカの大気浄化法が制定されたのも一因であるとも言われます。

これは野焼きに対する正の私見です。

そんなわけで野焼きについては「好きではない」のは確かなのですが、良いか悪いかと言えば「どちらともいえない」という気持ちでした。

最近読んだ本

「ガビオタス 奇跡のエコ集落」という本を読み、オーディオブックの「旧約聖書」を通勤中に聞いていたところ、どちらにもイナゴが登場します。

自宅の周囲の市町村には、田んぼや麦畑が多い。自分は去年まで7年ほど水稲栽培をしていました。そして1年目ですでにイナゴがほとんどいないことに気づいていました。

ここにきて野焼きでそれらの卵が死んでいるのかもしれないということに思い至りました。

田畑と違い、川原に農薬は撒かれません。川原には葦やススキなどイナゴが食べるにも棲むにも好みそうな植物がたくさん繁茂しています。それでもその姿をあまり見ないのは、野焼きがそれら害虫の卵を焼いている可能性があります。

野焼きに対する正の私見が一つ増えました。

まとめ

  • 野焼きは喉に厳しいです。
  • 野焼きは温暖化をいくらか和らげています。
  • 野焼きは除草に効果がありませんが、除虫には効果があるようです。
  • 好きか嫌いかと言えば、やはり好きにはなれません。

ついでに蝗害について少し調べましたが、とても興味深かったです。

花九曜印 いなご甘露煮 EO缶 #5 150g

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半島を出よ (村上龍 幻冬舎)

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)

半島を出よ〈上〉 (幻冬舎文庫)

はじめに

村上龍の本は初めてです。一度読んでみたかったというのもあります。そもそもそんなに小説を読む性質ではないので。

この本はを読もうと思ったのは、最近読んだ「本を読む人だけが手にするもの」に紹介されていたからというのが大きいです。その中では、とにかく執筆に当たって参考にした資料が質、量ともにとんでもなく多いということが紹介されていました。

だから細部にいたるまで徹底してリアルな描写があるのだと思って期待していました。というとなんだか期待はずれだったみたいな言い方ですが、そうではなく、期待していなかった部分がとても心を捉えたのです。

大雑把に内容を書くと

北朝鮮の特殊部隊が福岡ドームを武力制圧し、その後に続いて到着した部隊とともに福岡を日本から独立させようと作戦が進められていきます。事を素早く進める北朝鮮の部隊に対して、後手に回って有効な手立てが取れない日本政府。替わりに対抗するのは、カリスマ的なホームレスの元に集まっていた破壊願望とうまく折り合いをつけられなかった少年達。

… といった内容です。

生きている内容

確かに脱北者に聞き取りまでして書かれた北朝鮮兵士の姿はいきいきとしていましたし、残酷な拷問の描写も、残念ながら今も実際に行われていることを基にして書いているのでしょう。

2005 年に書かれた小説で、舞台は 2011 年。つまり「近未来」という想定で描かれています。2005 年と現在とでは社会情勢が異なるため、既にやや現実味がないと感じられるところはあります。Amazon の低評価レビューでリアリティが無いとする意見は、この時代背景のズレがあるのかもしれません。

現在の好戦的な政府から見ると、この本の中の日本政府の対応の不適格さは考えにくい。また北朝鮮が長距離ミサイルを次々に開発・実験している現状では、いきなり地上部隊を投入するというのも考えにくい。12万人もの兵士を無防備に船で送り出すというのもリスクが大きすぎる。など、私が感じるだけでもいろいろあります。時代は変わったなと思います。

心をとらえたもの

私の心を捉えたのは、そうした知らなかった北朝鮮の文化(念のため、もちろんこの本はフィクションですが)や日本の政治の脆弱性ではなく、対抗する少年達の生い立ちでした。

自分の心の中に浮かび上がってくる感情をうまく表現したりコントロールできないだけで、周りの人たちに誤解されたりして居場所が無くなり、健康な人生を送れなくなってしまった少年達。でもたまたま福岡にそれを受け入れてくれる場所があり、なんとなく集まっていた。

本を読む大きな理由の一つに「既に知っているけれど漠然としてはっきりとはしない事柄を、言葉にして詳しく確かなものとして現実化する」というものがあると思うのですが、この少年達の心のありようには確かにそれが表現されていると感じたのです。

感じたこと

4分の1ほど(つまり上巻の半分)読み進んで思ったのは「短い」ということでした。

登場人物の中から特定の人物ひとりを中心に短いストーリーが、まるでオムニバスのように連続したり重なったりしながら進んでいきます。その中には北朝鮮の人物も含まれています。北朝鮮の中の特定の場所や建物、人物の感情の機微も詳細に描かれていて驚かされます。そのためなのか、どのエピソードももっと読みたいと若干のもの足りなさを感じるのです。描かれている事件の内容にしてはあっさりしていると感じました。紙数の関係で、結構削られてしまったのでしょうか。

お気に入りは「山際」さんの章なのですが、その後日談は非常に気になります。

少年たち

私が引きつけられた少年たちは、それぞれが爆薬や毒物やブーメランのスペシャリストだったりしています。それぞれに自分の中に破壊願望を持っています。当然ながらそのような気持ちを持ちながらでは、学校や家庭の中で居場所が持てないでいます。でもこの本に描かれている少年たちだけではなく、世の中には同じような人がもっと居るはずです。自分の中にある「他人と共有できない気持ち」を抱えて生きている人が。

この本はフィクションですが、前述のようにかなり綿密な事前調査を行っています。描かれている少年たちの機微について、フィクションだけであるとは思えない部分が多々ありました。

そうした「少なくない人たち」は概ね「気持ちにフタをして社会と関わって生きていく」か「なるべく社会に関わらないように生きていく」かのどちらかを選ばされます。本の中で少年たちは、そのどちらでもない居場所に落ち着いています。気持ちにフタをすることなく、かといって他人との共有を強いられることもない居場所。なかなかこうした場所は見出すことができないでしょう。しかし必要とする人はやっぱり「少なくない」のです。成熟社会ではこうした人たちは「少なからず」生まれます。

少年たちが福岡のホームレスの元に集まった。描かれているその理由・生い立ちは様々ですが「他人の気持ちを共有するように強いられた」という点で同じではないかと思うのです。それは、人によっては健康を害し、人生を損ねる場合があるのです。それを最近の言葉では同調圧力というのでしょうか。この言葉は 2010 年代に入ってよく聞かれるようになりました。

特にこの傾向はフロイトユングが仲違いした余波に端を発した外向型人間社会が、ずっと勢いを持って広がっていることによるものと考えることもできます。

北朝鮮と日本に共通するもの

北朝鮮に(行ったことはありませんが)こうした同調圧力のようなものが無いかと言えば、そんなことは無さそうというのは、皆様も知るところだと思います。

加えて北朝鮮と日本では官僚主義という共通点もあります。かたや経済を基本とした官僚主義、もう一方は戦争を基本とした官僚主義があり、ともに硬直し、腐敗し、行き場を失っています。

日本にはホームレスが居て、北朝鮮にも貧困があふれている。

こうして見ると共通点が多いというべきか、人の悩みはいつも尽きないと言うことなのでしょうか。私はもう「完璧な世界など無い」というニヒリズムに耽って事足りるほど若くもないですし、この世界になにかを見出したいと思っています。そしてこの本からも、何かを見出したいと思います。

少年たちが見出したもの

タテノという少年は最後に、楽しいというのは何かをしているのではなく、大切に思える人と一緒に居ることだと後輩に言って聞かせます。

特に自分の周りにかもしれませんが「常に何かをしていないと居られない人」や「常に一緒に居る人と気持ちや考え方を共有していないと気が済まない人」が多いように思います。そうでなくても居られる場所が__この本の中に在るように__あればいいのになと思いました。

天才! 成功する人々の法則(マルコム=グラッドウェル著 講談社)

天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則

はじめに

本の題名:天才! 成功する人々の法則 本の原題:OUTLIERS THE STORY OF SUCCESS

成功した人間たちの物語をよく観察していくと見えてくるのは、本人の才能や努力よりも、そのおかれた環境や幸運が有利に働き、それが信じられないほど積み重なったことに依るところが大きい、ということを論じている本です。豊富な事例とそれを発掘する執念の調査で「天才」と称された人たちの物語をとき明かしていきます。

本の構成

プロローグとして、心臓病のない地域「ロゼト」の物語を紹介し、原題にもなっている「アウトライアー (outlier)」__中心やその近くの集団(つまり平均集団)から著しく離れた地点や、全く異なる分野に属する存在__の定義を示します。このロゼトの事例と同じような分析手法を用い、社会の中でアウトライアーと呼んでも良いほどの成功者たちの物語を追うことで、その成功が、どのような要因からもたらされたものなのかを解明していくと示唆されています。

第一部「好機」。 まず1章では、例としてカナダのアイスホッケー社会の例を取りあげます。カナダではアイスホッケーの選手たちを選考する機会が1年に1度であると言います。そのため生まれた日によって身体の成長の度合いで有利な子どもと不利な子どもに分けられてしまいます。そして選ばれた有利な子どもは特別なチームに入ることにより、そうでない子どもよりも練習量が少し多くなります。子どもの成長に合わせてそうした選別が繰り返され、はじめは少しであった差が積み重なって最終的に大きな差になって現れます。「成功は社会やシステムによって決められる」多く持つ者はより多くを手にし、少なく持つ者はその僅かに持っているものさえはぎとられる。著者が「マタイ効果」と呼ぶものになっていきます。 次の第2章「一万時間の法則」では、ビル=ゲイツビートルズ、ビル=ジョイなどを例に、成功するために積み上げた時間の法則性を見ていきます。またこの章の後半と第五勝では、生まれた時代がどう有利に働いたのかも取りあげます。 3章、天才の問題点では、IQ が特別高いにも関わらず、度重なる不運により成功ができなかった者たち、クリス=ランガン、ターマイツなどの事例を紹介しています。そして続く4章でそれらの人々が成功出来なかった理由について、もっと掘り下げていきます。 第五章では、二十世紀初頭にまで遡り、ジョー=フロムという弁護士の物語を筆頭に、第二章の後半で見た「時代背景が成功者たちにとっていかに有利に働いたのか」を更に詳しく分析しています。

「第一部では、成功が蓄積される優位点から生まれると述べた。あなたがいつ、どこで生まれ、親の仕事が何で、どんな環境で育ったか。それが成功するかしないかに大きな差をもたらす。 第二部では、祖先から受け継いだ伝統や態度が、第一部で見た優位点と同じ役割を果たすのかどうかについて探ってみたい」

ということで第二部の主題は「文化の遺産」です。6章のアメリカ南部出身者に見られる「名誉の文化」の事例をはじめに、出自が成功に与える影響を見ていきます。第七章では、航空機の事故から、その文化的背景が与える驚くべき影響について見ていきます。 第八章では、水田作りの複雑さがもたらした勤勉さと忍耐が、数学の修得に必要な「態度」を醸成する文化的優位について論じています。また「欧米の子どもが小学三〜四年生で数学嫌いになる話はよく聞くが、フューゾンはその原因のひとつとして、数学が筋の通ったものに思えないからではないかと論じる。つまり、数学の言語的な構造が不出来であり、基本的な規則が不明瞭かつ複雑である、と。」これは何のことを言っているかというと、例えば英語では1〜20までの数字には個別の呼称がある、つまり20進法になっていて、その後はそうではないなど、規則が一貫していません。ドイツ語でもフランス語でも、アジア人の目から見ると奇妙な規則があります。これはよく言われていることではあります。言語は生活と密接しているものなので、かつては20進数も理にかなったものだったのでしょう。しかし「数学を学ぶ上では」という点で都合の良いものではないようです。 第九章ではアメリカ貧困層の一部に対して行われている教育プログラム KIPP を例に、環境を変えることで得られる効果の実証について述べられています。著者の論調はここで子どもたちへの愛情に満ちています。すべての子どもたちは無理かもしれないが、より多くの子どもたちに「機会」を与えるべきだと。

エピローグでは、著者自身もまた「好機」に恵まれたのだと述懐しています。しかしこの本を通じてみられる著者の姿勢はこの「おまけ」的な章とて例外ではありません。徹底的に自分のルーツを遡り、時代背景と照らし合わせて、良いことも悪いこともすべて、その物語をさらけ出しています。

主タイトルの違和感

読み終えて初めに(読んでいる途中から?)思ったのは、本書主タイトルの邦訳「天才!」の違和感。「天才!」というタイトルから受ける印象は「お約束のサクセスストーリーものか…」でした。だからちょっと避けていました。それにこの本には、成功しなかった天才、成功できたはずなのに世界がその才を浪費してきたことに対する著者の憤りが強くにじみ出ていて、主タイトルからは真反対の印象を受けるからです。ある程度キャッチーなタイトルにする必要は理解できますが、失敗ではないかと思います。自分なら「トクベツ!」とでもするでしょうか。

副タイトルの「成功する人々の法則」の方は本の内容とも原題とも乖離が少なく、違和感はまったくありません。それだけに主タイトルの方が気になってしまいます。

しかし翻訳ものを読んでいつも思うのは、日本語のタイトルよりも原著のタイトルの方がビミョーだということです。原著の副題「THE STORY OF SUCCESS」も、なんというか…そう、ビミョーです。

念のため、本のタイトルは翻訳した人がそのままつけているとは限りません。もちろんそういうこともありますが、商業的な理由によってつけられることもあります。この場合はどちらか分りません。

私たちの選択

第二部には「遺産」という文字が入っていますが、特に第七章で取りあげられているのはどちらかというと文化的負債。その他の、アメリカ南部の名誉の文化も、英語圏における「数学の言語的な構造が不出来」な問題も、どちらかというと負債。これは他の文化と比較してみないことには、なかなか気づくことも難しい根が深いものです。(同様に「遺産」についてもなかなか気づけないものです。こうしたとき外に居る人からの目は嬉しいものです)

しかし一旦それに気づくと、あとは私たちの選択の問題だと分ります。

私たちは選ぶことができます。文化の遺産を受け継ぐのか、それとも負債を受け継ぐのか。それに忠実に生きるべきか、それとも解放を目指すのか。それを選択するのは私たちの問題です。

※ 第七章の航空機事故の例では、文化の遺産を受け入れつつ、ビジネスでそこを乗り越える可能性を示唆しています。

好機に備える

また、この本を通じて強調されている「好機」についても、同じことが言えるでしょう。もちろん好機が訪れるかどうかは、どうしても「運」に大きく左右されるものです。しかし、もし私たちに準備がなかったなら、運が向こうからやってきたとしても逃してしまうことになるでしょう。「己の非力さに涙することがないよう」来るべき日に備えておくかどうかは、やはり現在の私たちの選択なのです。

大人の選択

また子どもたちに機会を与えるべきかどうかは大人たちの選択です。著者は、アイスホッケーの選手の選抜を年に3回にすべきだと言います。同じように世界中から志望者の集まるハーバード大学についても、一定以上の成績があれば、その中から入学者を選ぶのは「くじ引き」にするべきだとも言います。KIPP のようなプログラムを選択するかどうかを選ぶのは子どもたちだとしても、そのような場を用意するかしないのかを選択することができるのは大人たちです。

日本では、良くも悪くも教育についての選択肢があまりありません。多くの子どもたちに平等に機会があればと願います。

ユビキタスコンピューティングの副流煙

ユビキタスコンピューティングの副流煙

PC やスマートフォンの普及、身の回りにコンピューターが内蔵されたものが増えるにつれ生活は便利になりました1が、それによって初めて発生した問題も数多くあります。いわゆる「ネットの闇」とか「プライバシーが企業に握られる」とかいう問題がよく取り上げられますが、この記事では別の問題を取り上げます。

着信音という脅威

ユーザーが操作した結果、時間のかかる操作の終了、タイマー、そして電話やメールなどの通知音など。音声は、ユーザーにフィードバックを与えるために重要なインタフェース要素です。ユーザーにフィードバックを与えるために進化し続ける GUI ですが、音声についてもどんどん進化しています。

結果どうなったか。

街角、オフィス、電車内の公共空間はもとより家庭内においても過剰としか言えない音と光があふれています。

それらは全て「人に適切なフィードバックを与え、人に注意を促すもの」です。しかし「メールの着信があったよ!」「新しい tweet があるよ!」と関係ない人に対しても注意も促してしまっています。

特に私は音にとても敏感なので、少し離れた場所からでも不意に音が鳴ると飛び上がるほど驚いてしまいます。また遠く離れた場所の大きな音(数百メートル先のトラックのクラクションなど)でも同様です2

仕事中なら集中が途切れますし、何より頻繁に驚かされるのは堪ったものではありません。これらは電子機器のもたらす「副流煙」です。

光の脅威

光についてはどうでしょうか。

ルーターやハブなど LAN 機器は導通の確認ができるようにランプ(LED)が付いています。状態を色や点滅方法でユーザーにフィードバックします。こちらも特に LED が低消費電力という特性と相まって、湯水のように使わるようになりました。また、高輝度へと進化する方向にあるため視界に入るノイズとしてすでに厄介な段階になっています。

PC の背面にも同様のランプが付いているものがあります。あるいは筐体内部のボードに刺さっているものが通気口から見えているのかもしれません。メーカーは「背面なら問題ない」と思っているかもしれませんが、PC に囲まれた日本のオフィスではしっかり視界に入ります(キュービクルが主流の海外なら問題はないのでしょうけれど3)。ほとんどが輝度の低いもの(高い必要は無いので)ですが、まれに必要以上にまぶしいものがあります。

クルマのシガライターに装着する機器の通電ランプには LED むき出しの製品もあります。夜間走行の車内ではまぶしすぎます。

このようなデリカシーにかける製品群があり、やはりこれも人によって深刻な「ノイズ」になっています。

経済的な成功の犠牲になっているもの

Apple Watch には iPhone への着信を他人に知られず触覚的に通知してくれる機能があります。正直この製品が最初に発表されたときは「わずか数日で電池が切れる腕時計など何の役に立つのか」と思い、全く眼中になかったのですが、この機能を知ったときは福音だと思いました。同時に、おそらく Apple 内部でも同様の問題意識があって、これが社会全体で顕在化する前に手を打ったのではないかと気づきました。同社は自社製品が雑音を垂れ流していると示唆するようなことは決して言わないでしょうから、この機能はプライバシーや利便性の点から特に強調されるでしょう。しかし内部的にはそうした問題意識が生まれたのだとにらんでいます。先見性の高さに定評のある同社だけに、大いにその可能性はあると思いますし、またその点で大いに感銘を受けるものでもあります。

しかしこれが最終解であるとは思えません。やはりスマートウォッチはスマートフォンほど普及しているとは言えないためです。

経済の犠牲になっているものは数多くありますが、その中に「大衆の無感覚」のようなものが入っていると感じます。 環境問題に深くかかわる人が、それがひとりひとりの個人の内面の問題であるとの気付きを得る のに似ているでしょうか。

「他にもっと大きなノイズ源があるのに、デバイスからのものだけを槍玉にあげるのは如何なものか」という人がいるかもしれませんが、ここで問題なのは音の大きさや発生源ではありません。「関係ない人 にも 注意を促す 」という点です4

雑音や喧騒に慣れた都市生活者なら気にならないかもしれません。しかし「雑音や喧騒に対して無感覚になっている」と自覚するとき、それを良しとする人はどのくらいいるのでしょうか。ここにもう一つの福音があります。これは、雑音にあふれた居心地の悪い世界が反面教師となるという消極的な意味ばかりではありません。ユビキタスコンピューティングによる多くの情報は同時に、多くの示唆をももたらすからです。

雑音が福音をもたらす…。図らずもなんかオチがついてしまった気がします。


  1. 必ずしもそうとは言えないという意見があります。ここでは詳しく書きませんが、それもまた同時に真であり、矛盾するものではないと考えます。

  2. 花火や雷などは「予期できる音」なので大丈夫なのです。

  3. PC メーカーは背面も「常に見られている」と意識してデザインした方が良いです。私が Apple 以外の会社の PC のデザインに及第点以下という評価をしているのはこのためです。Apple への言及が多くなってしまいましたが、決して Apple をほめて「ばかり」いるわけでは有りません。同社の製品群にも苦手なものは多々あります。

  4. 挙句の果てには、自身の持つデバイスでさえ、そこからの着信に翻弄され まるでそれがデバイスの所為だと言わんばかりのおかしな人 まで現れる始末です。

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート - まとめ

はじめに

第二十一講までを読み終わり、まとめのページを作りました。

f:id:saponte:20170705081649p:plain

免責

このページはあまり自主規制しません。

まとめの観点

基本的に、この見開き2ページを見れば学んだことを概ね思い出せるように作成します。

まとめた内容

まとめのページは以下のように作成しました。

  • ノートのすべてのページから、各講の内容を一言であらわすならどのようになるかを抜き出す。
  • 重要な数式や手順を書き出す。
  • 重要な数式や用語の初出は色の付いた字で書く。
  • 直感的に解りづらい記号を書き出す。

講の一覧

一つの講は不要と判断して省きました。

各講の内容を一行で抽出しました。 また初出の用語を強調し、リファレンスとして引きやすいような文にします。

この一覧を作るとき重要なのは、目次や見出しに使われている語句を安易に羅列するのではなく、なるべく自分が言葉を使うようにすることです。自分がその内容をちゃんと理解しているか、他人に聞かれたときに自分がサッと答えることができるか、自分がその内容を思い出すとき、どのようなキーワードが必要か。そうしたことを考えて作ります。

そうするのは、すでに身についている語をわざわざまた強調する意義が薄いからです。本文や目次、見出しなどで著者が強調したい語と、自分にとって重要な語は違うのです。もちろん本の読み方によっては「概要を記録しておきたい」という面もあると思いますので、そういうときは別になります。

あまりにかけ離れたものになってしまうと、自分のノートのほかのページや本へのリファレンスとする際に使い物にならなくなる危機感を持つ人もいるかもしれません。しかしほとんどの本には「章」や「部」などの ID として使える単位があります(この本の場合は「講」)。形式的にそこを残しつつ、自分の言葉で考えるのが良いと思います。

振り返り

作ったノートをすべて振り返ってみます。

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第一講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第二講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第三講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第四講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第五講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第六講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第七講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第八講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第九講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十一講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十二講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十三講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十四講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十五講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十六講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十七講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十八講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第十九講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第二十講」 - サポンテ 勉強ノート

「完全独習 統計学入門(小島寛之 ダイヤモンド社)」 勉強ノート「第二十一講」 - サポンテ 勉強ノート

いままで何度も書きましたが「授業を聴きながら書くのはメモ。そこから理解した内容を自分なりに整理して『作った』ものがノート」であると言われています。

振り返ってみると、当然ですがいままでの道のりが俯瞰できます。最初の頃のことがほんとうに初歩的なことであり、またすべての基礎であることがわかります。何かを学び始めるときは、自分がそもそもどこに向かっているのかすら判らない時もあります。最初にその道のりをざっと確認する勉強法もありますが、それを未知の分野に対して適用するのはやはり難しいかもしれません。

ここまでやるのはかなり骨が折れます。ここまでやる必要があるのかというご意見はあるでしょうが、試験勉強に適用した場合、ここまでやれば試験前準備の手間はかなり省けます。本の内容を忘れた場合も、最初に冒頭のまとめのページを見て、よくわからない部分があったら各講のページ、それでもわからなかったら本自体を参照したり別の書籍を参照するなど、かなり効率的に「振り返り」ができます。あまり時間が取れず結局4ヶ月もかかってしまいましたが、学生さんが1教科/1ヶ月ペースでこのようなノートが作れるなら1年で12教科がこなせることになります。もう社会人ですが、今後も必要に応じてこのような感じで勉強をしていきたいと思います。なによりも自分のために。

カラーボールペン

カラーボールペンを派手に使っていますが、ちょっとゴチャゴチャし過ぎてしまったと反省しております。昔、同じようにカラーペンを巧みに使ってきれいなノートを作っている同級生がいて、憧れのような気持ちもありました。今後は、図表は別として、本文は色数はなるべく抑えて、太さによる違いをもっと利用したほうがいいかもしれない。まとめのページは色数を抑えてみました。太さのバリエーションは持っていないので、工夫も必要かもしれません。

もともと絵を描くために入手したカラーボールペンを流用しています。特に問題はなかったのですが SARASA Clip のグレーの 0.3mm だけ、妙に引っかかる感じで書きづらかったです。これだけはインクがなくなり次第、別の太さを試してみたいと思います。

本の感想

あとがきで著者のかたが書いている通り、入門以前の内容です。しかしながら巷の「入門」書の多くは予備知識が必要だったり、その予備知識に頼った専門用語が駆使されていたりするのに比べると、門外漢の私としてはうれしい内容でした。

先ほど「その道のりをざっと確認する」のが難しいと書きましたが、この本ではその「ざっと確認」ができたと思います。勉強しながら「いったい自分はどこに向かっているのだろう」と思っていました。十七講を超えたあたりでやっとなんとなく分ってきました(笑)。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

完全独習 統計学入門

完全独習 統計学入門